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「春映画」を振り返る。

 春。それは出会いと別れの季節。同時に、東映特撮ファンにとっては希望と不安入り混じる季節でも”あった”。「今年こそ悪くないはず…」という期待を胸に劇場に駆けつけ、それぞれが色んな思いを胸にスクリーンを去ったことだろう。

 そう、本文における春映画とは「春」そのものを題材にした作品群ではない。毎年4~5月頃に公開されていた仮面ライダー・スーパー戦隊を筆頭とした東映ヒーローのクロスオーバー作品のことを指す。マーベルスタジオが史上最大のユニバース「MCU」を今まさに紡いでいる傍らで、日本の映画会社東映による実質アベンジャーズが、それこそ毎年行われていたのだ。…予算もスケールも技術も作品の質も大きな隔たりがあることを除けば、だが。

 今回は、そんな春映画を振り返っていきたい。出演キャストや劇場限定のライダー、新フォームの情報に胸躍らせ、その期待が怒りや空しさに変貌していったあの頃の記憶を、平成が終わる今成仏させてしまいたい。そんな時代もあったのねと、笑い飛ばせるためにも。

 最初の春映画は2008年4月公開の『劇場版 仮面ライダー電王&キバクライマックス刑事』である。といっても、まだこの頃は「春映画」という名称も定着する以前のことで、当時はイレギュラーな一本だった。

 2007年に爆発的な人気を巻き起こした『仮面ライダー電王』の、当初はVシネマとして企画されていたものが劇場公開作品となったのが本作だ。当時放送中の現行ライダー『キバ』と共演し、強奪されたライダーパスを取り返すべく悪のイマジン・ネガタロスと闘う。

 何と言っても画期的だったのが、本作が平成ライダーでも初となる、TVシリーズ完結後に製作された続編であり、他作品のライダーとの共演作品でもあることだ。児童誌での応募者全員サービスの「ハイパービデオ」やプラネタリウムといった企画モノを除いて、作品間を跨いだ共演を果たすというのは『ディケイド』以前では考えられなかった出来事であり、電王・ゼロノス・キバが横並びになるカットは、当時のファンにとってはかなりサプライズだったに違いない。地続きの世界観を共有することはなかった平成ライダーにとって、一つの転換点となった作品である。

 実際の本編は『電王』続編の意味合いが強く、現行TVシリーズの撮影スケジュールの兼ね合いもあってか『キバ』のキャラクターがメインとなるシーンは少ない。モモタロスが紅渡に憑依したり、キャッスルドランとデンライナーが揃い踏みになったりと要所は抑えつつも、あくまで電王の1エピソードにキバが通りすがるような塩梅の一作だ。とはいえ後の作品群に見られるようなカオスっぷりは影もなく、短い上映時間やライトなストーリーも相まって気軽に観られる番外編のような作品。とはいえ、桜井侑斗がゼロノスに変身可能という設定であり、本編との整合性が破綻しているという春映画の特性がこの段階でも顔を見せているのも見逃せない。

 その翌年4月に公開されたのが『劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦』である。2008年10月に公開された『劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン』にてシリーズ完結となったはずの電王が、半年後には「超・電王」と名乗り早くもカムバック。しかし主人公の野上良太郎を演じた佐藤健氏は出演せず、時空の歪み(a.k.a.大人の事情)により溝口琢矢演じる12歳の良太郎にバトンタッチ。当時放送の『ディケイド』と共にオニの一族と闘う。

 相変わらず衰え知らずの電王人気にあやかって製作されたゆえか、前年の『電王&キバ』同様に本作も電王主体の作品となっている。1980年代のとある田舎を舞台に、母を失い東京から来た少年ユウと、おなじみデンライナーの面々が出会い、鬼退治のため室町時代に向かう。実はこのユウ少年の成長物語として軸は通っており、イマジンの中でもデネブがフィーチャーされていることも相まってか、ファンなら必見の作品となっている。劇場限定ライダーに新フォームも複数あったりと、いい意味で「いつもの」ライダー映画の水準で楽しめるのだ。

 その傍らで、「他の平成ライダーに変身できる」という個性を活かせず終わるディケイド、コアなサブライダーを置き土産して去っていくディエンドなど、現行作品メンバーの不遇っぷりも愛嬌か。定番のイマジン憑依ネタもありつつ、あくまでオマケと割り切って観るのがディケイドファンにはお薦めだ。

 その翌年、ライダーファンの度肝を抜いたのが『超・電王トリロジー』だ。トリロジーの名は伊達ではなく、電王の新作映画を2週間ごとに連続3作公開するという、お財布的に辛いシリーズが幕を開けた。

 仮面ライダーゼロノスを主人公とする『EPISODE RED ゼロのスタートウィンクル』が2010年5月22日に、NEW電王を主人公とする『EPISODE BLUE 派遣イマジンはNEWトラル』が6月5日に、ディエンドを主人公とする『EPISODE YELLOW お宝DEエンド・パイレーツ』が6月19日に公開された。『電王』に登場したサブライダーたちを主人公にしたスピンオフ作品群であり、良太郎(12歳)とイマジンズ、デンライナーの乗客たちが3作の橋渡しとして登場する。

 『RED』では桜井侑斗と野上愛理の淡い恋が描かれる、TV本編を補完するような内容で、『BLUE』は主に映画シリーズでの主役となる野上幸太郎とその相棒のイマジン・テディの友情に軸を置いた、過去の劇場作のその先に位置する作品だ。そしてトリロジーの大トリ『YELLOW』はまさかの他作品のライダー主演作で、デンライナーを乗っ取り過去の自分を突け狙うディエンド=海東大樹と、それを追う時間警察のレイジ=G電王が争う。劇場ならではの新ライダーや新フォームが登場するのは『YELLOW』のみで、映画は三本でも予算は三本分ではない、という裏事情を察してしまうのは大きなお友達の性だろう。

 そもそも、仮面ライダーのメインターゲットは幼児~児童層であるにもかかわらず、三本連続劇場公開となれば理解のある親御さんがいない限り完走は困難だ。劇場に連れてってとおねだりに苦戦した当時の子どもたちも、今では特撮を卒業した世代だろうか。あるいはネット配信サービスやレンタルDVDで後追いで補完した子もいるかもしれない。どちらにせよ、当時の視聴者にとって優しい企画ではなかったことは確かだ。

 電王枠として定着してきた春映画、2011年4月には『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』が公開された。未だ人気の衰えぬ電王と当時の現行ライダー『オーズ』を主役に据え、オールライダーがショッカーに立ち向かう仮面ライダー生誕40周年記念作品にして、東映創立60周年記念作品である。

 突如オーズの前に現れた3体のイマジン。それを追ってきたデンライナーと合流した火野映司とアンクは、1971年11月11日の時代に飛ぶ。その時落としたメダルによって、世界はショッカーが支配する未来に変えられてしまう。さらに、仮面ライダー1号・2号がショッカーの戦士として君臨し、絶望の時代が訪れていた。

 本作の目玉は、藤岡弘、・佐々木剛・宮内洋が1号・2号・V3の声を演じた点にある。ショッカーの改造人間という仮面ライダー誕生の原典に立ち返り、最強の初代ライダーが最大の敵として立ちはだかるという、原作リスペクトに満ちた展開が魅力の一作だ。なにせ声がご本人の1号2号の強さは圧倒的で、現行ライダーを完膚なきまで叩きのめす展開も、納得せざるを得ない。

 また、ショッカーに支配され荒廃した世界に生きる少年たちの深刻さを、マイルドではありながらしっかり描かれており、彼らがライダーの活躍を通して希望を見つけ「少年仮面ライダー隊」になっていくという、実にアツい展開が待っている。納谷悟朗最後の名演となったショッカー大首領との決着もあり、子どもから大人まで幅広い世代の心をわしづかみにした一作だ。

 もちろん春映画恒例のガバガバ設定も踏襲されており、「特異点である幸太郎と一緒にいたから消滅しなかった映司」については流石に首を捻ったが、クライマックスの展開で良くも悪くも帳消しになる程度に、軽微なものだろう。少なくとも、翌年と比べたら可愛いものだ。

 さぁやってきました。混沌と失望とトラウマの時代がついに到来。いまだファンの間で語り継がれる最大の問題作が、2012年公開の『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』である。これまで仮面ライダーの枠だった春映画が、東映ヒーロークロスオーバー枠と化した、(色んな意味で)記念碑的作品だ。

 地球の平和を守るために悪と戦う仮面ライダーとスーパー戦隊。しかし、門矢士=仮面ライダーディケイドが大ショッカーの大首領として、全てのスーパー戦隊の討伐を宣言。同時に、キャプテン・マーベラス= ゴーカイレッドも大ザンギャックの大帝王を名乗り、全ての仮面ライダーを倒すべく活動を始めたのだ。

 本作は、とにかく事前の期待値が高かった。それぞれが「過去のヒーローに変身できる」という特性を持つ仮面ライダーディケイドと海賊戦隊ゴーカイジャーの共演は、それこそファンが夢見たドリームチームだった。それに加え、昭和~平成までの仮面ライダーとスーパー戦隊、そして歴代怪人と戦闘員が一堂に会する本作、登場キャラクターは総勢485人。もう見分けがつくのかと不安になるばかりのスーツアクター大運動会は、鑑賞前からかなりのカオスが予想された。

 しかし、本編が進むごとに雲行きは怪しくなっていく。なぜか互いを潰し合う仮面ライダーとスーパー戦隊。その先頭に立つディケイドのゴーカイレッドの真の目的は、大ショッカーと大ザンギャックの計画する「ビッグマシン計画」を阻止するためであり、倒されたはずのヒーローたちは「時空の狭間に送り込まれただけで無事」という、とんだ茶番劇であったことが明かされたのだ。

 なぜ最初からライダーと戦隊が協力しないのか。誰もが思う当然の疑問をスルーして、実は演技だったのさ!とドヤ顔をかます二大ヒーロー。その茶番のせいで破壊された都市、殺された人だっているはずでは…?ここにきて、「ライダーと戦隊と闘わせたい」という展開のために用意された設定の無理やりさが、あろうことかヒーローとしての格を下げるという、もっての外の所業に出てしまう。

 その不快感を代弁するかのように、士から邪見な扱いを受け続けたディエンドが、ビッグマシンを乗っ取り敵味方関係なく攻撃する大暴れ。仮面ライダー・スーパー戦隊連合軍による最大の敵が仮面ライダーという、視聴者も呆れ頭を抱える事態に発展するのだ。そもそも、敵を欺くための作戦だと事前に通達していれば、こんなことにはならなかった。よもや本作は「報・連・相」の大切さを伝えたいのか?そんなもの、現実で間に合っている。

 また、本作で集結したヒーローそれぞれの個性を披露するのは到底不可能であり、固有の武器やアクションを使った見せ場があるキャラクターは限られている。中にはライダーと戦隊での合体技が観られるレアなシーンもあるが、大多数は「大勢その他」の扱いで、クライマックスの大合戦で蹴る殴るを繰り返すだけの数合わせ要因と化してしまう。しかし、こんなに愛の無い活躍しか許されないのなら、出ない方がマシと思われても仕方がない。

 ストーリー、アクション双方ともに作り手の愛を感じられない、お粗末という言葉に収まらないほどの大惨事。本作を鑑賞し、劇場を出た後フツフツと沸き起こる「怒り」「憎悪」の感情は、今でも鮮明に思い出せる。そしてその評価は今でも変わらず、この作品を見返すのはかなりの覚悟を要する。ハッキリ「駄作」と言って差し支えのない出来で、異論はないだろう。

 大きな心の傷を負ったのに、一切学ばなかった。翌年もまた、映画館に足を運んでしまった。2013年4月公開の『仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z』だ。

 宇宙各地では魔法の力が同時多発的に暴走しており、宇宙は破滅の危機にあった。その容疑者とされた仮面ライダーウィザード=操真晴人は、宇宙刑事ギャバン=十文字撃の襲撃を受ける。しかし、撃はその戦闘で晴人への疑いを晴らすものの、宇宙刑事の資格を剥奪されてしまう。その後晴人は獣電戦隊キョウリュウジャー、伊狩鎧=ゴーカイシルバー出会い、本当の黒幕を探ることになるのだが…。

 いきなり結論を言ってしまえば、「前作ほど破綻はしてないが、良くもない」である。魔法使いが容疑者ならマジレンジャーはどうなんだよ!?というオタクなら当然の疑問はさておき、登場するヒーローを「野獣系」「宇宙系」などの括りに絞ったことで個々のキャラクターの活躍が増え、ヒーロー同士の対立もすぐに解決するため、前作のような険悪ムードはほとんど感じられない。しかし、一条寺烈が地球破壊を承認するという有り得ない言動に出てしまい、またしてもオールドファンの不興を買ってしまう。展開優先のためのキャラクター改悪という、前作の汚点を繰り返してしまったのは、やはりいただけない。

 次に東映が放ったのは、2014年3月公開の『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』だ。春映画への信頼が失墜しているところへ、「藤岡弘、本格参戦」「平成VS昭和の勝敗をリアル投票」というイベントで強引に巻き返しを図ってきた。

 藤岡弘、が本郷猛を演じるのはなんと38年振りで、貫録のある変身ポーズは問答無用にカッコイイ。さらに、昭和ライダーからは神敬介=X、村雨良=ZXがそれぞれオリジナルキャストで復活。平成も門矢士=ディケイド、乾巧=ファイズ、左翔太郎=W/ジョーカー、操真晴人=ウィザードが参戦するなど、これまでの春映画とは異なる意外な人選が話題を呼んだ。

 さて本作、アクションにはこだわりを感じさせる場面が多い。とくに変身シーンには何かしら1アクション加えられていて、敵が放つ矢を弾くオレンジアームズや変身途中にキメ台詞を挟む左翔太郎など、新鮮なショットが楽しませてくれる。また、オリジナルキャストが演じたライダーはそれぞれの作品のその後を思わせる演出がなされており、その中でも仮面ライダーファイズ=乾巧については「TV本編と似た経緯を経たであろう」と思わせる塩梅のキャラ造形で、原作ファンには嬉しい特別待遇だ。ディケイド=門矢士も、先輩には不遜な態度だがシュウの想いを汲みとって闘う正義のヒーローとしての姿が、専用BGM込みでしっかりと描かれており、『スーパーヒーロー大戦』の汚名を見事返上してみせた。

 とはいえ、やはり脚本に難があるのが春映画の常。平成と昭和の対立はまたしても「敵を欺くため」であり、悪の組織バダンを滅ぼすための前段階として、ライダー同士の不毛な争いが繰り広げられていることが明かされる。しかも、バダン復活のきっかけが平成ライダーの死者への未練が原因であるとして、昭和ライダーが因縁をつけてくる、というオマケ付きで。

 なまじ平成ライダーが死者の少年シュウの未練を晴らそうと奮闘している中、昭和ライダーがイチャモンつけて絡んでくる展開が繰り返されるため、これでは昭和ライダーがどうしても悪者に見えてしまう。挙句の果てにバダンを打ちのめした後も海辺で喧嘩を初め、思わず絶句する理由で戦闘を中断…。昭和ライダーが折角の貫録を見せたところで、脚本がそれを殺してしまう。

 場面を抜き出せば喜ばしい点も多く、過去二作と比べてもキャラクター描写の充実度は格段に改善されている。それなのに、昭和ライダーへの見方がどうしても悪くなってしまう物語構造だけはどうしてもいただけない。言うなれば「惜しい」という言葉が脳裏をよぎる、そんな一作であった。

 平成対昭和の闘いに続いて、2015年3月には『スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号』が公開。初代仮面ライダー放送当時、児童誌での漫画にのみ登場した幻の仮面ライダー3号が、ついに映像作品に登場。

 その3号に変身する黒井響一郎を演じるのは及川光博。黒い羽が舞うなんてキャラクターを嫌味ナシで演じられるのは、日本広しと言えどこの人くらいだ。コートを羽織った姿にキザな台詞も華麗にこなす、本作のMVPは間違いなくミッチーその人である。

 しかし、またしても春映画の悪い癖が、最悪の形で花開いてしまう。本作は3号によって1号・2号が敗れ、ショッカーによる世界征服が成されたパラレルワールドが舞台である。そして、パラレル=TV本編とは無関係なのをいいことに、当時放送中の『仮面ライダードライブ』のキャラクターが死亡したり、敵に捕まったヒロインがビルから飛び降りるなど、陰惨な展開が続く。

 その極地が、仮面ライダーマッハの死である。しかも、彼を殺害したのは『ドライブ』では主人公らと同じ警察官の仲間である追田警部補。改変前の世界では味方だった男に殺される現行ライダー…という凄まじい展開もさることながら、映画のラストに歴史が元に戻ってもマッハ=剛の死は変わらないという最悪のオチ

 それではTV本編と齟齬が生じるのでは?ということで、なんと本作はdビデオで配信されたスピンオフ『仮面ライダー4号』へと繋がる、という展開を見せた。この『4号』という作品、蓋を開ければ『555』もう一つの最終回とも言うべきストーリーが繰り広げられ、その点ではいいサプライズであったと言える。しかし、劇場映画同様に動画配信サービスとは「子どもの意思だけでは入会できない」ものであり、多くの子どもにとって映画は未完のまま、日曜朝にTVを点ければ何もなかったようにマッハが生きている。これが誠実な作り手の態度だろうか。大きなモヤモヤを残し、3号は再び歴史の闇に消えて行った。

 3号の次は1号だ。2016年はこれまたシンプルに『仮面ライダー1号』である。藤岡弘、が再び本郷を演じる、初代ライダーの主演作だ。

 仮面ライダーとショッカーの闘いから半世紀。本郷猛は今なお、世界各地でショッカーの残党たちと戦い続けていた。そんなある日、本郷はかつての師・立花藤兵衛の孫娘である立花麻由がショッカー残党に狙われていることを知って帰国する。しかし、改造人間としてのボディには長年の闘いのダメージが蓄積されており、彼には死が迫っていたのだ。

 本作のジャンルは、「特撮」でも「アクション」でもなく、「藤岡弘、」である。藤岡弘、が現代を生きる全ての人に伝えたいメッセージを、すなわち「命の尊さ」というものを、全身全霊で訴えかける。

 その結果生まれたのは、世にも奇妙なライダー映画だった。本郷猛はかつての師の孫娘のために肉体労働に励み、ショッカーは内部分裂が進み新たな勢力が台頭する。己の死期が迫った本郷、何を思ったか高校生たちに命の授業を始め、孫レベルで歳の離れた女の子と「デート」に繰り出す。すごい。俺はいったい今何を観せられているんだと、マジで混乱し始めてくる。

 そしてついに本郷にも死が訪れ、哀しみに包まれるのだが、そこは永遠のヒーローこと仮面ライダー1号。少女の叫びによって復活し、ショッカーに立ち向かう。え、待って、命って一度きりだから尊いのでは????『ゴースト』観ました?観てないですかそうですか…。

 とまぁこのように、何度観ても凄まじいくらいに伝わってくる『藤岡弘、』という人の熱い心が、上手く映画とマッチしなかったんだろうなと、そんなことを思ってしまう作品で、何度見返しても戸惑いを隠せなくなる。なんだろうこれ。

 続く作品は2017年3月公開の『仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦』。事実上、最後の春映画だ。

 1980年代に人気を博したゲーム『ゼビウス』の巨大浮遊要塞現実世界に実体化して世界各地を襲う。その直後、新たなゲーム「超スーパーヒーロー大戦」が始まり、死んだはずの九条貴利矢=仮面ライダーレーザーや他のヒーローたちが現れる。そして、その中にはゲーム世界の鏡飛彩が仮面ライダートゥルーブレイブとして参戦していた。
 一方、ゲームの世界に飛び込んだポッピーピポパポとアム=ジュウオウタイガーは、霧野エイトという少年と出会う。エイトを救おうという奮闘する傍らで、飛彩はエイトを避けていた。その背景には、飛彩自身の過去が深く関わっていた。

 公開当時の現行ライダー『エグゼイド』がゲームを題材とした作品だったためか、スーパーヒーロー大戦そのものをゲームにしてしまおうというコンセプト。初っ端から「ジューランドが壊滅」と『ジュウオウジャー』最終回との矛盾を放つなど出だしから好調だが、その後は思いの外シリアスに展開していく。ゲーム世界に閉じこもった少年エイトと、それを救うことが出来なかった飛彩の後悔が語られ、エイト同様に感情の薄いナーガ=ヘビツカイシルバーが感情を学んでいく。番外編的な趣向の強い春映画において、現行作品のキャラクターのバックグラウンドや成長を描くとは、正直予想外であった。…まぁこの時点でナーガを泣かせるのは早すぎたというのが、今になって思うことでもあるのだが。

 その一方で進行していく、ゲーム「超スーパーヒーロー大戦」。ライダー・戦隊の垣根を越えたドリームチームの闘いはファン垂涎、と思いきや、どれも淡々としていて盛り上がらない。過去作同様にヒーローの個別の武器や必殺技、フォームチェンジといった要素はなく、個性を奪われたキャラクターたちが蹴る殴るを繰り返すという、悪い意味で「いつもの」クオリティ。ゲームという性質上、原作では死亡したキャラクターも登場させられるという設定だが、どれも作中の名台詞を何の脈略もなく連呼する「名言bot」と化してしまうのは、ゲームのNPCだからということで大目に見なくてはならない。かくして、今作もまた作り手の愛や情熱を感じられない、凡庸な作品であった。

 『平成ジェネレーションズ』3部作がそうだったように、冬映画はアクション・ストーリー面でのクロスオーバーに注力した良作揃いだったことに反して、春映画はどれも作りが甘いという印象は拭えない。イベントとしての華やかさでお客を惹きつけるも、いざ近くで見るとハリボテだった、というようなガッカリ感。その出来栄えに落胆し、時に怒りさえ抱きつつも、いざ翌年になればそのことを忘れ新作を観に行ってしまう。そんな不思議な魅力が、春映画にはあったのだ。

 そんな春映画も、上述の白倉大首領様のツイートが示したように、2017年を最後にひっそりと幕を閉じた。翌2018年には『アマゾンズ』の劇場版が公開され、血と硝煙に塗れた地獄絵図でファンを出迎えてくれた。そして2019年1月現在、春の新作映画の公開アナウンスは無く、本当に終わったんだと実感させられてしまう。

 平成ライダーも節目を迎える今、一つの風物詩が終わりを告げた。それを悟った瞬間心に芽生えた、猛烈な寂しさ―。本当は好きだったのだ、春映画が。キャスト情報や玩具のラインナップに展開を予想したり、破綻した脚本や本編との矛盾にツッコミを入れたりした、そんな日々が、今では懐かしい。仮面ライダー・スーパー戦隊の映画の質は年々向上しつつあり、それは喜ぶべきことだが、色んな意味でファンの心に爪痕を残していった作品群があることを、忘れないように新たな時代を迎えたい。春は、出会いと別れの季節。


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