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『ペルソナ5 ザ・ロイヤル』慌ただしく、そして名残惜しい一年を過ごす、かけがえのないゲーム体験。

 2024年にもなって「ペルソナ5は最高。全人類早く遊んだほうがいい」と声高に叫ぶのも何だか恥ずかしいし、すでに語りつくされているに違いない本作に対し何かテキストを遺す意味を考えつつ、まぁ場末のnoteくらい好きにやろうということで、こうして卒業文集を書き記していくとする。なお、筆者のペルソナ歴はPSP版のリメイクで1~2罪罰、3P、4Gときて「PS3版の5」を過去遊んだ程度であり、今回の『ロイヤル』における三学期などの追加イベントやコープはまるっきり初見、という立場にございます。ハードを一世代飛び越しておる。

名前の由来については以下ご参照ください。

快適さと戦略性の両立を成すロイヤルなバトル

 「飽きた」「ワンパターンになりがち」などと世間では評されることの多いプレスターンバトル(ワンモアプレスとも呼ばれている。どっちが正式名称?)だが、私はこのルールをこよなく愛している。弱点属性を突いて相手の動きを無効化し、全員をダウンさせられたら総攻撃でトドメ。『5』からは交渉もできるようになり、サボらずやればお金や回復アイテムがどんどん積み重なっていき探索が楽になっていく。

 これらを円滑に回すためには、複数の属性に対応したペルソナを常に所持する、そして何よりも敵に先手を取ること、が重要になってくる。前者はシリーズおなじみの「合体」でどのスキルを継承させるかを吟味しながら強力なペルソナを作成する(同時に図鑑を埋める)モチベーションにもなるし、『5』では怪盗のモチーフに沿って簡易的なステルス行動が追加されており、敵から身を隠し強襲、不意打ちを取ることで確定先行に立てるという、主人公たちの振る舞いとゲーム性とが見事に噛み合った構成をしている。

 その他、敵の弱点属性に従って有効なスキルまでショートカットしてくれる「アシスト」、1moreの行動権を仲間に移す際に攻撃力アップや回復といったメリットが付随する「バトンタッチ」といったシステムに加え、『ロイヤル』からは耐性無視の強力なコンビ攻撃を加える「SHOW TIME」が追加されている。ゲーム後半にはそもそも弱点がない強敵が登場する機会も増えるのだが、ここぞ!という時に形勢逆転を促せるシステムの追加は、より戦略性が増し考える楽しみを与えてくれた。「TECHNICAL」にダウンが発生すること、銃の弾が戦闘終了後には補充される形になったのも、こちらの攻め手が増えたことで一部の敵への理不尽さが解消されており、無印5の不満点を潰し遊びやすく調整された『ロイヤル』にバトルの面ではほぼ隙が無くなったと言っていいのかもしれない。

 快適さと爽快さを兼ね備えたシステムの充実により、本作のバトルの回転数は他のRPGとは比べ物にならない。1moreによる敵の制圧から総攻撃で撃破!に至るまでのボタンへのアクセスは最小限だし、近接攻撃だけを繰り返すオートなら(敵との相性にもよるが)10秒ほどで決着がつくこともある。コープアビリティ「瞬殺」を覚えれば、その効率はさらに加速する。普段からレベル上げのための連戦が苦にならないタイプではあるのだけれど、とくにペルソナ5はこの辺りがストレスフリーで、気が付けばそのボスの適正レベル~+1くらいに辿り着き、高校生のそれはとは思えないくらい財布の中身が充実している。

 余暇時間が狭まりつつある年頃だが、短い時間でそれなりの成長が見込めるというのに、寝食を忘れメメントス探索に熱中してしまい、弊怪盗団の戦力はぐんぐん増強されていく。この異常なまでの中毒性、SPのリソース管理が上手く回るようになっていく中盤以降は、あっという間に戦闘狂に堕ちていった。連戦でお金を貯め、強力なペルソナ合体に大金をつぎこみ、その新しいペルソナのレベル上げとお金稼ぎを兼ねてまたもやメメントスに潜る。この繰り返しがとにかく楽しい『ロイヤル』は、プレイ時間がどんどん長くなっていくのも止む無しなのである。

長いようで短い「一年」という絶妙さ

 『3』以降のペルソナシリーズは、一日に昼と夜の二回に行動を選択し一年を謳歌するカレンダーシステムが採用されている。この間にプレイヤーは主人公の人間ステータス育成、コープの形成、メメントスでの探索、パレスの攻略などなど、様々な選択肢の中からその都度今すべきこと、したいことを天秤にかけ、自分で過ごし方を選んでいく。

 このゲームにおける最も重要なリソースはSPでも好感度でもなく、「時間」である。パレスの主のオタカラを盗むまでの締め切りに、コープはキャラクターによって進展させられる曜日や時間が決まっているものもあるし、三学期を迎えるためには特定のコープをある程度進めておく必要も。これらを思い通りに進めるには、パレスやメメントスの攻略をなるべく一回で済ませる、狙っているコープが発生しない日に人間ステータスの向上に充てる、といった方向に自ずと思考が定まっていく。自分では効率よく回せているつもりでも、突然のお誘いに心がなびいたり、ついつい予定外の行動を取ってしまったりと、ペルソナ主人公として過ごす一年間はスリリングであり、先の見えないところがこの上なく楽しい。

 一年という期限が、絶妙なのだ。ゲームが始まった瞬間こそ無限に先があるように思えるのに、季節が変わっていくと次第に「終わり」が見え始めてくる。何度も挟まれる試験をやり過ごし、学園祭や修学旅行で思い出を作る。そんなこんなをしていると、あっという間に彼らが冬服に衣替えしているのだ。四季の移り変わりと学校行事が時間の進行を強烈に印象付ける、学生だったころの時間感覚。職場と家とを行き来する毎日の中で、それを再びゲームという媒体で味わわせてくれるからこそ、ペルソナシリーズは「大切」になっていく。プレイヤーの数だけ存在する一年間の軌跡こそが、何よりもかけがえないものなのだ。

気のおけない仲間との大富豪の時間すら、かけがえのないものになる。

以下、本作の重大なネタバレを含みます。
閲覧にはご注意ください。

ベルベットルームの“反逆”

 リマスター版の発売によって配信禁止区域が撤廃されたとのことで、(文字情報なら元より関係ないだろうが)、ようやく大手を振ってこの話ができる。無印5のクライマックスにおける主人公たちとは別の反逆、イゴールのカムバックだ。

 シリーズの顔(鼻)として印象的だったイゴール。その存在感を何よりも際立てる声を吹き込んでこられた、田の中勇さんのご逝去。その不在を埋めるように新イゴールを演じるのは、なんと津嘉山正種氏。思わずこちらが怯むほどの低音ボイスは、田の中さんの代理が務まる声優さんが見つからなかったのかと、当時は思った。だが、それだけではない。このイゴール、性格や主人公への接し方も、これまでとはまるで別人なのだ。

 こうして迎えた最終局面。この一年間の物語は、主人公と明智五郎を駒に見立てた、ベルベットルームを支配せんとする意思と真のイゴールとの、代理戦争であったことが明かされる。イゴールが黒幕というサプライズで花火を打ち、面食らっているファンの前に満を持して登場する、田の中イゴール。未だかつて、目玉おやじの声にこれほど感情を揺さぶられたことはなかったし、『ロイヤル』で二度目を経ても、その感動は薄まらなかった。

 ずっと前から感じていたのだが、このどんでん返しは受け手がシリーズファンでなければ成立しない爆弾なのである。イゴールという存在が作品間をまたいで歴代の主人公を導き、その担当声優が亡くなられているという「史実」を知らなければ、この逆転劇も唐突で感情移入は難しいものになったかもしれない。だが、この結末を恐れずに採択した橋野プロデューサーら制作スタッフのリスペクトに、シリーズファンとしては感謝しかない。正直、このラストがゲーム全体の悪印象を全て補って余りあるくらい、本当の本当に大好きなのだ。よくぞここまでユーザーを信じてくれて、ありがとう。

おなじみのBGMに特徴的な声。
「帰ってきた」という感慨で胸がいっぱい。

正義を「貫く」二つの結末

 という話の後にするのも恐縮なのだが、無印5のシナリオには、当時やや飲み込めなさを覚えたことも事実だった。散々語られ尽くしたと思うが、怪盗団が行う「改心」という行為の暴力性と、その落とし所については、今なおモヤモヤした気持ちを抱いている。

 体罰と性的搾取によって自殺未遂者を出してしまった鴨志田、他人の美術品の加工と弟子を支配していた斑目など、序盤こそ仲間や学友がその餌食となっている現状を見て「やむを得ず」という心理に誘導してはくれる。だが、怪盗団の名前が世に広がり、改心の依頼が「怪盗お願いチャンネル」を通じて殺到するようになると、彼らは次第に世直しの手段としてペルソナ能力を使うようになる。目的がすり替わり、10代の少年少女らしい視野の狭さに歯止めがかからなくなっていくのだ。

 もちろん、彼らの増長にはちゃんとブレーキがかかる。祐介は時に冷静な視点を与えてくれるし、怪盗団の行いを正義でないと語る明智の存在は貴重だった。ところが後者は、明智本人が復讐心に燃える殺人鬼ということが明らかになり、主人公らと敵対して表舞台から姿を消す。主人公たちは確かに改心でこれから失われたであろう命を救い、日常や政界に蔓延る巨悪を打倒した。その一方で、「父親を改心させてほしい」と頼んだ春が、結果として父親そのものを失うという後味の悪い結末を迎えており、持ち合わせた強大な力とそれに伴う責任は、作品全体を包み込むテーマの一つとなるだろう。

怪盗団の行いの正しさは常に議論されるが、
明快な答えを出すのは難しい。

 いくつかの議論と逡巡を重ねつつも、怪盗団に改心を望む声は止まらない。そして最大のターゲットである獅童正義に行き着く。認知世界を悪用して精神暴走事件を引き起こし、その他にも数えれきれないほどの犯罪を重ねたであろう獅童。その魔の手はついに怪盗団の逮捕というところまで迫り、それを回避するためには獅童の改心をしなければならない、というハードルが設定される。

 我が身可愛さで他人の心を改変するのか、という倫理的な問いが発生しかねない展開だが、獅童がすでに大量殺人など多くの事件の黒幕であること、主人公の前歴の理由や双葉の母の死にも関わっていたこともあり、心の怪盗団にとっては私的な「復讐」が、腐敗した政治家の打倒と度重なる精神暴走事件の解決に繋がる、という落とし所に導かれる。

 怪盗団の立場、及び彼らが信ずる「正義」については、その危険性と代償も併せて提示されており、いつ彼らが牢屋に入れられてしまうのか、という緊迫感がシナリオを盛り上げてくれる。そこに水を差したのは、終盤のとある展開、大衆による「頑張れ怪盗団」だ

 自分たちの行いが絶対的な正義ではないことを知りながらも、巨悪が現れれば「世直し」の大義名分を掲げ、改心に挑む怪盗団。彼らはRPGの主人公とその仲間たちという役回りのため忘れがちなのだが、そもそもその出自が、大人の振りかざす理不尽に抑圧されてきた10代の少年少女たちだ。彼らは品行方正で、教科書通りの倫理を持ち合わせているわけでもないし、それに準じる必要はない。あくまで“フィクションである”という前提の元で話すが、個人的には心の怪盗団が改心によって自分たちの正義を「貫く」という主義の元に行動することは、好ましく思っている。腐った大人たちが「ガキ」だと嘲笑った子どもに逆転される様子を観て高揚する。それが橋野Dも目指したであろうピカレスクものの醍醐味だと思うからだ。

そして『ペルソナ5』では、まわりの環境によって自分らしさを抑圧され、未来まで奪われそうになっている主人公たちが、荒ぶるシャドウとも言うべき“本音”を鎖でつなぎながらも解き放つ。そうすることで、世界を変えていくような力強さのあるペルソナが発現する。これが、ジュブナイルRPGでピカレスク・ロマンを描こうとしたときの、“ペルソナ”の解釈です。現実で本音を爆発させたら社会的にうまくいかないことも多々あると思いますが、ふだんは抑え込んでいる想いこそが、人の個性の源だったりもしますし、それを大いに発散していく本作のゲームプレイで、スカッとした心地になってもらえればと。プレイを終えた後、皆さんが前向きに何かをするひとつのキッカケとして本作が貢献できるようなことがありましたら、作り手として感無量です」。

『ペルソナ5』はどうして“学園ジュブナイル”なのか?
ディレクター・橋野桂氏による特別コラムから、シリーズの深層を知る【前編】(1/2)

 獅童の改心を成功させた怪盗団。そんな彼らの前に現れたのは、先述の偽イゴール=「一度限りのサプライズ」を成し遂げた感動の呼び水であり、同時に本作を勧善懲悪の物語へと変容させてしまった存在こと、統制神ヤルダバオト。元より人の願いを叶える聖杯でもあるヤルダバオトは、人々が潜在的に願っている「他者に全てを委ね、思考を放棄して生きていきたい」という怠惰な想いを叶えるために暴走し、人間を管理すべく現実世界とメメントスの融合を果たそうとする。

 水は低きに流れると言うが、本作における大衆とは、怪盗団による世直しを望み、自分は匿名のまま改心してほしい人間の本名を怪盗お願いチャンネルに投稿するような人々である。自分は何もせず、他者に労力とリスクを背負わせ、最終的には自我すらも投げ捨てかねない愚かさを振りまくその他大勢の人類の思想が、最後の敵として立ちはだかる、という構図。それに対し、罪悪感を抱えながらも他者と絆を結び前を向いて歩くことを決断した主人公と、その仲間や友人たち(コープキャラ)は神による統制を拒絶する。

 大衆の欲望に振り回され、自らの人生が崩壊しかねないほどの重責を背負った怪盗団。そんな彼らが、大衆が望む怠惰で理想的な新世界を“身勝手な正義”を振りかざして否定する。これが醍醐味であり、真骨頂だと思うのだ。「改心」の暴力性も倫理的な是非も吹っ飛ばして、「今俺たちが歩きだそうとしているこの現実を無視するのか」と言ってのける、これがペルソナ流、アトラス流のクライマックス。ちょっと捻くれているくらいがちょうどよく、ペルソナらしい。完全無欠な真っ白ではなく、ダーティーな正義を示す方向に振り切ったが故に、賛否両論は避けられないものの、個人的には拍手を送りたくなる。

「フィリップ!風だ……風都の風が!!」
「僕達に……力を!!」

 だからこそ、「頑張れ怪盗団」の声の無責任さが、ノイズとして響いてしまう。これが従来の特撮ヒーローものであれば、感涙モノのクライマックスになったはずだ。ところが本作では、彼らの声援が元々アウトローで自分勝手な正義を“それでも“振るう怪盗団の物語を、英雄譚に変えてしまう。怪盗団は元より義賊ではないし、ヤルダバオトの実現する世界でこそ救われる人もいるだろう。その対決を見守る群衆のリアクションにグラデーションがないことで、彼らはただの書き割りでしかなく、作り手が怪盗団の成したことへの印象をプレイヤーにどう受け取って欲しいのか、その印象が大きく揺らいでしまった。

 また、怪盗団は最終決戦に至る前提として、名声ではなく満場一致によって決まった正義に則り行動することを再度誓ったわけだが、大衆の望みがヤルダバオトから怪盗団に乗り移った結果、怪盗団もまた大衆の願いを叶えたに過ぎないという皮肉にも受け取れてしまい、ラストの爽快感を大きく減退させたことも個人的にはマイナスであった。結局のところ私は、心の怪盗団の正義が世間一般の思う“正しさ”から逸れたものであってほしかったのだろう。そうでなければ「改心」なる世直し行為を正当化できないから。我ながら、複雑な感情を10代の非実在青少年に背負わせたものである。

 という実に長ったらしい前置きワガママを語ったところで、今回の『ロイヤル』で追加された三学期のシナリオ―宿敵の動機とそれに対する怪盗団の正義の着地―が、実に自分好みであった、という話なのである。

 ヤルダバオトを打ち倒しようやく迎えた新年。そこには、亡くなっているはずの人や深い心と身体の傷を負った人も笑って過ごしていて、そして何より明智がいる。これこそ、丸喜拓人が成し遂げた「救済」の世界。個々人が自分の認知によって世界を規定し、それぞれの理想が叶い苦痛が取り除かれた現実が実現する。私利私欲のために認知訶学を利用した獅童とは異なり、丸喜の願いはただただ純粋な救済ただ一つ。自身も認知訶学が他者(元恋人)を救うその瞬間を目の当たりにし、かつその結果として大きな喪失と心の痛みを抱えた経験があるからこそ、正義対悪の構図は通用せず、怪盗団と丸喜は自分の正義をぶつけ合うしかなくなってしまう。

 怪盗団と丸喜の闘いだが、実のところ構図としては無印の最終決戦と然程変わりはない。つまり、大衆が望む理想的な世界を実現する神VSそれを否定する怪盗団、である。違いがあるとすれば、丸喜は獅童やヤルダバオトのように欲の充足や支配を目的とするのではなくむしろ救済を願う善人であり、今回は闘いを見守り意思を介在させる大衆の視点は一切描かれないこと、である。

丸喜先生は女生徒を中心に人気が高かった。
彼に悪性はなく、むしろ純粋すぎる救済欲が
世界を「曲解」させてしまったのだ。

 正義と正義のぶつかり合い。望む世界を実現させる力としてのペルソナと、それを振るうエゴイスティックな人間の形。丸喜が願う世界の妥当性も、それに耽溺してしまう気持ちも、大人であれば痛いほどわかってしまう。と同時に、痛みも乗り越えて前に進もうとする意思を見せる怪盗団にも、こちらは(ゲーム内時間で)一年間見守った情がある。どちらも正しいし、肩入れしたくなる。しかしこれが仮に多数決を善とするのなら、全人類の理想を叶えんとする丸喜の方が圧倒的に“正”になる。それを否定するだけの万人が納得する根拠など、怪盗団は持ち合わせていない。

 だからこそ、自分たちの願いのためにありのままの現実で生きることを望む怪盗団の姿が、私にとっては「観たかった真の結末」と成りうるのである。正義を貫く結果として、誰かの願いや理想を打ち砕いてしまう。ウルトラマンや仮面ライダーなら眉をしかめる決断かもしれないが、これは『ペルソナ5』であり、怪盗団の物語なのだ。長い時間をかけて築いた絆や、背負った重責も葛藤も放り投げて生きるキャラクターの姿は、これまでの自分のプレイングを裏切ってしまう。だから、現実に帰る。誰の目も気にせず、自分たちの信ずる正義を全うする怪盗団の姿は、大衆の視線を取り除くことでより純化されたのだ。

 『ロイヤル』で追加されたこの最終決戦の構図について、作り手が何を意図したものかは関連書籍などに目を通しきっていない今知る由もないが、「悪神」と評される文字通りの悪を敵に据えなかったこと、怪盗団VS丸喜→主人公VS丸喜のサシの勝負に移行するなど、徹底して正義VS正義を推し進めた内容を採択したことに、ひたすら感謝している。明智を再び登場させるためのロジックとしても、後付設定として矛盾がないという意味でも、認知訶学を獅童とは別方向で利用するというキャラクターは天才的発明だと思う。そして何より、丸喜拓人の心の痛みに触れ、その足跡を追うかのようなパレスのギミックを経てこそ、“それでも”現実を選び取る覚悟がより輝くのだ。

あとがき

 いつの間にかJRPG最高傑作などと呼ばれるようになった『ペルソナ5』だが、『ロイヤル』を経てさらに遊びやすく、追加シナリオも蛇足になるどころか、むしろより奥深いテーマが描かれ、個人的には納得のタイトルに仕上がっていた。苦言も呈したが、ゲーム内の一年間の煌めくような輝きに目を灼かれ、そして別れが訪れる三月の切なさに涙した今では、そうした粗も帳消しになってしまう。

 無印を遊んだ当時と今の大きな違いとしては、本作の主人公同様に、自分も地元を離れて東京で暮らし、そこ離れた経験がある、ということ。駅の大きさと慣れない路線変更に戸惑い、新しい人間関係に救われ、成長する。最終的には世界を救ってしまった本作の主人公とは比べるのもおこがましいが、似たような経験を踏まえたからこそ、居候先の主である佐倉惣治郎から「挨拶周りに行ってこいよ」と言われた瞬間、どうしようもないくらい涙が溢れて、止まらなかった。

 東京で出会ったお友達が開いてくれた送別会、通勤で何度もお世話になった中央線車両と東京駅の風景、地元に帰る前に立ち寄った吉祥寺の風景。『ペルソナ5』の主人公が辿った足跡が自分の人生と重なり、楽しかった時間の思い出と別れの寂しさがフラッシュバックして、涙を抑えられなかった。

 東京で過ごした時間のいくつかの欠片は、クラウドに収められた写真と頭の中の思い出として残っていて、それを振り返ると不思議と元気が湧いてくる。きっと同じ想いを、画面の向こうの主人公くんも感じただろう。だからこそ、彼の新しい門出を、祝福したい。どんなに苦しいことがあっても、ここで築いた友情や経験はきっと糧になる。そのことをいつか実感して、かけがえのない時間を懐かしむ時が来るだろう。その時流す涙は、この一年間が「大切」であった、何よりの証になるはずだと、今日くらいは人生の先輩としてアドバイスを残しておこう。

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