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シン・ゴジラ以降のリアリティが白眉の『空母いぶき』

これは遠くない未来の物語。12月23日未明、沖ノ鳥島の西方450キロの波留間群島初島に「東亜連邦」を名乗る過激民主主義国家が上陸し、自国領域が占領される事案が発生。領地奪還のために出撃したのは、自衛隊初の航空機搭載型護衛艦《いぶき》を旗艦とする第5護衛隊。初島を目指す第5護衛隊は、敵国艦隊の激しい攻撃を受け、ついに死傷者を出してしまう。「専守防衛」を掲げる日本国にとって、敵対行為は即時戦争を招くことになる。そんな極限の緊張の中、いぶき艦長の秋津竜太は敵艦の待つ海域への直進を具申する。全面戦争の危機にさらされた日本の運命は、第5護衛隊に託された。

 かわぐちかいじ原作の同名漫画を、『沈まぬ太陽』の若松節朗が映画化。特撮ファンとしては、平成ガメラシリーズ(&パトレイバー)の脚本を手掛けた伊藤和典が参加している点は見逃せない。

 本作は、第5護衛隊に属する6隻の艦隊内部と政府首脳陣を交互に描き、海で繰り広げられる戦闘と政治劇の両面で戦争を回避すべく奔走するプロフェッショナルの姿を克明に映す。矢継ぎ早に専門用語が飛び交う閣僚会議のシーンはどうしても『シン・ゴジラ』を彷彿とさせ、これをリアルだと感じるほどに観客のリテラシーが高まっているのは、あの映画の大きな功績だ。具体的な要求もなく、何の躊躇いも無く引き金を引くことができる謎の敵を前に、常に即断を迫られる総理の重責たるや、思わずため息が漏れる。公開前の雑誌インタビューでの発言の一部が拡散され、理不尽な批判に晒された内閣総理大臣役の佐藤浩市氏だが、それがいかに不当で的外れであるかは本作を観ればはっきりとわかるはず。戦後初の防衛出動を下すか否かというキャリア最大級の困難を前に、お腹を壊してしまう人間らしさでさえ描くなと言うのなら、政治家はみな完全無欠の超人としてしか描けなくなってしまう。大きな思想や理想を胸に自分の仕事に励む者たちも、我々と同じ人間であることを忘れてはならない。

 本作で改めて意識させられるのは、日本という国が掲げる思想。「専守防衛」を掲げる日本は武力の意味するものが他国と比べてもより慎重であり、「戦争を起こさない」ことを至上として平和を保ってきた。その脆い部分を突いてくるのが敵国である「東亜連邦」であり、遵守すべき国際法の束縛がないかの国は容赦の無い攻撃を仕掛けてくる。それに対し、日本川の攻撃は敵対行為とみなされ、それを口実に国民へ戦火が広がりかねない。防衛のための必要最小限の軍事力とは何か?それをどう行使すべきか?到底答えの出るはずのない命題を突き付けてくるところに、本作の鋭さがある。

 戦争は絶対に回避しなければならない。それゆえに間違いは許されない極限状態において、一切ひるむことなく常に即断で突き進む、西島秀俊演じる艦長の秋津は無類の強さを誇る。非人間的で胸の内を明かさず、国民に戦争犠牲者を出さないための自衛官の死を「本望」とまで断言する。ストイックで迷いがない仕事ぶりは、『ハンターキラー 潜航せよ』のジェラルド・バトラーにも通じるところだが、秋津はそこに冷徹さが加わる。

 副艦長の新波を演じるのは佐々木蔵之介。自衛官であっても犠牲者を出さぬように具申する新波の人間味あふれる在り方は、ときに秋津と対立することになるが、その信条の対比こそがドラマチックだ。どちらも「国民を守る」という点では一致しており、それこそが自衛隊という組織の要であることは、言うまでもない。これをプロパガンダと揶揄するのは、やや性急ではないだろうか。

 その他、脇を固める豪華俳優陣もみな男らしく、誰もが印象的な活躍を果たし、心に残る名演が続出。映画オリジナルキャラクターとして、本田翼と小倉久寛演じる記者がいぶきに同乗し国民に状況を伝える役目を果たしているのだが、この二人もラストである重大な役割を果たす。彼らプロフェッショナルが粛々と自分の仕事をこなす様は無駄が無く、それを阻害するキャラクターもいないため、観ていてストレスがない。お仕事映画として大満足の出来栄えであった。

 惜しむべきは、時折流れる感傷的な音楽が『シン・ゴジラ』以降のリアリティ表現とは乖離していたり、とあるコンビニ店員のサブエピソードが緊張感を削ぐ瞬間があり、諸々のピースが上手くハマらないもどかしさを感じる瞬間もあった。かといって、観る価値のない作品などと言われるのは我慢ならない。実在の人物を揶揄する意図がないことは確かであり、本作の主張の正誤を論じたいのなら、まずは実際に鑑賞してからが筋であろう。「戦争」を引き起こさないための「戦闘」とは何か、その是非を問うことにこそ、本作を観て各々が持ち帰る感慨であることは間違いない。

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