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『ぼくらの』命で、それは動く。

 Twitterで愉快なタグを見つけたので乗っかってみたところ、たくさんのリプをいただき、観るべき作品がたくさん増えまして。いつもは自分のスキな映画や特撮を押し付けている手前、たまには薦められたものを食べるオタクになろうと手を出した結果、一発目から食あたりして入院するハメになった、みたいな事故が起きました。続きが気になって止められない、でも仕事帰りの疲れた脳と心では咀嚼できないような、大変心労のかかるアニメでした。

夏休みに自然学校に参加した少年少女15人は、海岸沿いの洞窟でココペリと名乗る謎の男に出会う。ココペリは、子供達にとあるゲームを持ちかける。それは、「地球を襲う15体の巨大な敵を、ロボットに搭乗して倒す」というもの。兄のウシロに止められたカナを除く14人は、ただのコンピュータゲームだと思い、ココペリと契約を結ぶ。
その晩、黒い巨大なロボットと敵が出現する。ロボットの中のコクピットに転送された子供達15人の前には、ココペリと、コエムシと名乗る奇妙な存在が待っていた。ココペリから闘い方を学んだ14人は、次の戦闘から順番にパイロットを交代し、敵と戦うことになる。しかし、戦闘を重ねるにつれ、子供達はゲームの真の意味を目の当たりにすることになる。

 突如出現する敵を倒すため、巨大ロボットを操縦して闘う。男の子の憧れを凝縮したようなその「ゲーム」に、とても無邪気に参加する子供達。しかし、そのゲームにはとんでもない秘密が隠されていた―。鬼頭莫宏による同名漫画を原作としたこのテレビアニメは、何かと自主規制やSNSによる過剰な視聴者の反応に塗れる前の、2007年の深夜という時間に相応しい仄暗さと不謹慎な面白さを兼ね備えた作品のように感じられる。

 15人の子供達が操り、彼らによって名づけられた巨大ロボット《ジアース》(Zearth)。黒い装甲に覆われ、針のような手足の、昆虫を思わせる強靭なロボット。彼らの前に襲来する敵もロボットで、それぞれが尖った性能に秀でた、個性豊かな機体が次々と現れる。それれは作中「怪獣」と呼称されるように、本編中も怪獣映画を意識したようなアオリのショットで相対する2体のロボットが映しだされ、巨大なもの同士のぶつかり合いを激しく描く。それだけでも面白いのに、次第に物語は思わぬ方向へ転がってゆく。


以下、作品のネタバレが含まれます。




 闘いが終わる度、抜け殻のように事切れていくパイロットたち。その理由を問われたコエムシは、生き残った彼らに真実を語る。「ジアースの原動力は、パイロットの生命力で賄われている」と。15体の敵を倒すために選ばれた15人の子供達は、闘いに勝利しても命を落とす。そして負ければ、自分たちの地球を含めた宇宙が消失する。彼らは契約した時点で、その命を、未来を奪われていた。

 それが明らかになってからというもの、本作は1話ごとに1人死んでいくアニメと化し、エンドロールのキャスト欄から名前が少しずつ減っていく殺伐さが胸に響く。本作はその仕組み上、パイロットに選ばれたキャラクターのメイン回(=死ぬ)が繰り返される居た堪れなさに満ちており、いわば本編尺20分で死亡フラグを建てれるだけ乱立させ、そして散っていくまでを24話、ただ観ていることしかできない。

 その事実に対し当の子供達は、それぞれ異なる反応を見せる。死を恐れ闘いから逃れようとする者もいれば、大切な人がいる地球を守るために納得して闘いを望む者もいる。そして確実に訪れる死についても、過度に感傷的に描いたりしない。その突き放した作風、一見ドライにさえ思える描き方ゆえに、視聴者の中で悲劇性がより増していく。こと13歳という多感な時期、家族との関係性に問題を抱える15人は、己の死と直面することでその問題への向き合い、時に解決へと向かい、その瞬間に彼らの死が訪れる。

 不謹慎な物言いだが、『ぼくらの』の面白さといえばこの「何重にも折り重なった悲劇性」にある。例えば、中盤にパイロットに選ばれるナカマは、母親が体を売って自分を育てていることにより周りからは心無い扱いを受け、それゆえに模範的であろうとする少女。彼女は闘いの直前、みんなのユニフォームを作る布代を捻出するため、自分も売春をしようとするが、大人たちの計らいで母親が働くスナックを訪れることに。そこでナカマは、母親と自分を助けようとしてくれた人たちがいること、どんなに後ろ指を指されようと堂々と生きる母親の深い愛を知り、ユニフォームを託して闘いに臨んでいく。家族が絆を深め、些細な心の掛け違いが収まったその時、当の子供達はもうそこにはいない。あえて本編中には描かれなかったが、自分の子供が課せられた運命を知らず、愛する子を失った親はどうなるのだろうか。直接描かれなかった余白にも、計り知れないほどの慟哭と後悔が眠っている。これこそ本作の背筋の凍るような醍醐味といっていい。映画『SAW』シリーズが「命を犠牲に命の尊さを伝える」という大変迷惑極まりないお題目の下に残酷なゲームが行われていたが、とても近い印象を受ける。

 それだけに止まらず、このゲームに隠されたさらなる残酷な真実が次々と明かされていき、視聴者のHPをこれでもかと削っていく。自らの命を奪われた少年少女が、より多くの命を選別する役回りを課せられる皮肉。そうした子供達の命運=地球の存亡という関係性の狭間に、ジアースを巡る陰謀や国政の動きを描く「社会」が挟まることで、さらに深みが増していく。子どもが毎週死んでいく展開の繰り返し(凄いあらすじだ)でもマンネリにも陥らず、スリリングな展開で目が離せない。

 またしても他作品の引用になる上に、後出の作品になるのだが、どうしても『PSYCHO-PASS』『魔法少女まどか☆マギカ』を思い起こしてしまう。同作も、社会や宇宙といった大きな枠組みを運用するための「コスト」を巡る「ルール」が存在し、そのルールを知らない者が悲劇を背負って死んだり、その事実を知って絶望する物語でもあり、それに抗おうとした者を描く帰結も似通っている。こうした構造を持つ作品は、この残酷な現実社会を描くメタファーとして読み解くこともでき、それゆえに観る者の思考を促すし、キャラクターの運命に深く共感してしまう。そうした嗅覚に刺さる作品の一つとして、2007年にひっそり放送されていたのがこの『ぼくらの』である。

 残酷で、過激だから面白いという後ろめたさに突き動かされ、ジワジワとHPを削られながら完走できました。すっごい好みではありましたが、しばらくは見返せないです…。なにせしんどいお話なので、落ち込んでる時は観ない方がいいです。マジで。

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