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Netflix版『Death Note/デスノート』が地獄だった。

 『デスノート』のハリウッド実写化といえば最初の実写版である藤原竜也×松山ケンイチ版(金子修介監督版)の頃からウワサされていたものの、月日は流れ国内ではTVドラマ版と上述の劇場版の続編が製作され、そしてついにNetflix資本による実写化がついに実現した。「名前を書かれた人間が死ぬノート」というキャッチーかつ衝撃的なアイデアは、国外でも高く評価されているようだ。

 このNetflix版において重要なのは、監督を務めたアダム・ウィンガードなる人物。『サプライズ』『ブレア・ウィッチ』などのホラー作品を手掛けており、その手腕を買われ本作のメガホンを任されたこの人こそ、2020年に公開される『Godzilla vs. Kong』の監督なのだ。モンスターバース集大成にして日米怪獣王対決を撮る監督が、日本の漫画である『デスノート』実写版に挑むというのは、とても興味深い。

 といった前知識だけを元に鑑賞したものの、やや頭を抱える内容であったため、その感想を述べていきたい。ネタバレを含むため、ご注意ください。

 まず前提として、本作は「原作漫画の忠実な実写化ではない」ということは念頭に置いておかねばならない。原作で言うところのキラとミサの関係性は大きくアレンジされているし、Lを演じるのは黒人俳優のキース・スタンフィールド氏だ。原作と違う点を探せばいくらだって挙げられるだろう。そもそも原作を忠実になぞるのであれば、2時間の映画一本で描き切れないのは明白だ。

 今回の実写化にあたり、現代アメリカの価値観や文化に併せて設定を変更し、映画一本分に収めるために原作をアレンジさせるのは当然のことである。原作からの改変=悪と決めつけるのでは、そもそも国外で実写化された作品を観る必要などない。どのように味付けをされたのかを楽しむのが、こうした作品の醍醐味であるはずだ。

 しかし悲しいことに、そうした改変が映画としてor『デスノート』実写化として面白いものになっているかは、別の話である。原作漫画という食材をいかに調理するか、という尺度において、今回出来上がった料理と私の好みが合わなかった、ということなのだ。

 物語は、主人公のライト・ターナーがデスノートを拾うところから始まる。クラスメイトの宿題の代行をして小銭を稼いでいるようだが、スポーツに疎く異性からは認知されていないようなタイプだ。警察官の父を持つという共通点はあれど、原作の夜神月とは正反対のイケてない男子。彼がリュークと出会い、ノートの効力を悟るシーンは、過去の実写版でも何度となく描かれてきたものから特に変化はない。

 その後の展開で興味深いのが、ライトが気になる女の子のミアにノートの秘密を話し、二人が共犯関係となっていく点にある。名前から察せられる通りミアは原作でいうところの弥海砂に該当するキャラクターだが、海砂はキラ=月に心酔し恋愛関係を強要してくるのに対し、ミアはライトの存在よりも「キラ」活動そのものにのめり込んでいき、やがてライトからノートの所有権を奪おうとする。月が海砂を利用しLを追い詰めていく原作とは対照的に、ミアによって窮地に陥るライトの姿は、今までにない第一・第二のキラの関係性として目新しかった。

 この改変からわかる通り、今作のライトはいわゆる「天才」タイプの主人公ではなく、どこにでもいる普通のハイティーンである。このアプローチはもろ刃の剣であり、居酒屋でアルバイトするアイドルファンの大学生という設定だけで批判を浴びた2015年のTVドラマ版(演:窪田正孝)を巡る騒動は記憶に新しい。天才VS天才の頭脳戦こそ『デスノート』の醍醐味だと感じる人には、この時点で受け入れられなくなってしまうからだ。あるいは、平凡な大学生が「キラ」に堕ちていく過程をじっくり描いたTVドラマ版に惚れ込んだファンにとっても、尺が足りないためライトが己に科した使命と罪悪感の狭間で揺れる様を堪能することは出来ない。結果として、「夜神月」に連なるキャラクターとしてのライト・ターナーの印象は曖昧なものに留まってしまう。天才にも狂人にもなれないライトはある意味で一番現実的だが、物語を導引する主人公としてちっとも魅力的ではないのだ。

 一方のLは、原作漫画やアニメ、松山ケンイチ演じる実写映画版において象徴的だった「白」のイメージカラーから一転、黒い衣装とマスクで身を隠した造形に仕上がっている。一方で、あの印象的な椅子の座り方(立ち方?)や糖類を異常に摂取するなど、これまでのLらしさを踏襲してもいる。

 さて、本作のライトが偶然ノートを拾った平凡な高校生であるのに対し、Lは原作同様に世界的な影響力を持つ探偵、という設定を踏襲している。こちらは「天才」という肩書を持つ名探偵Lを、説得力を持って実写化しなければならない。

 その点において足を引っ張る結果になったのは、使用人であるワタリの扱いにある。ライトはワタリの名前をノートに書き死ぬ前の行動を操ることでLの本名を知ろうと企み、実行する。そしてワタリはノートに書かれた命令を実行し、Lの本名を探り始めるのだ。

 まず大前提として、「ワタリ」が偽名でもコードネームでもないという点について、キラが顔と名前を知れば殺せることがすでに判明している以上、あまりに迂闊だったと言わざるを得ない。もちろん、そんな規格外な能力を持つノートの存在など事前に知る由もないわけだから手遅れである可能性はあるにせよ、世界を股にかける名探偵が自分はコードネームで活動してるくせに、使用人は顔も本名も明らかにさせたままなど、普通有り得ないだろう。

 結果としてワタリは命を落とすことになるのだが、それに動揺したLは『ブレードランナー』ライクのSF銃を片手にライトを追い回す。ライトとLが追いかけっこする『デスノート』ほど気の遠くなるものなどこの世にないだろう。感情的な一面を強調した今までにないLのキャラクターは、このワタリの一件のせいで「天才」「名探偵」から程遠いものに感じられてしまう。この致命的なミスを、誰か気づかなかったのだろうか。とても悔やまれる。

 かくして待望の海外実写版『デスノート』は、イマイチ個性の見えないライトVSうっかりさんな世界的名探偵Lという、IQの低い作品に落ち着いてしまった。原作を忠実に再現するだけが実写化ではない、という個人的な評価軸はそのままだが、一本の映画として本作を観た時に面白いと感じるかは、ハッキリ言って「否」だ。設定の綻びを放置したツケが周ってきてどうしようもなくなった作品が、『Death Note』として全世界に配信されているのは、根強いファンなら思うところがあるだろう。

 もちろん、海外版ならではの面白さも存在していた。前述のミア(ミサ)の振る舞いは斬新だったし、ノートに名前を書かれた人々の『ファイナル・デスティネーション』じみた殺害映像は悪趣味すぎて笑いが出るほどだ(グロ注意)。監督お得意のホラー演出が炸裂した死神リューク周りは印象的なカットも多かったし、何よりリュークにウィレム・デフォーを宛がったスタッフは何かしらの表彰を受けるべきだ

 それらを補って余りある出来の悪さやキャラクターの幼稚さを、どうしても好意的に観ることが出来なかった。戦犯探しなどする気はないが、『ゴジラVSコング』という一大マッチに暗雲立ち込めたのは、きっと杞憂なのだと信じたい。

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