第470回 灯篭に込めた想い
1、現代の貨幣価値だとどれくらいなのでしょう
先日のnoteで佐久間勝之という人物が建てたお化け灯篭について触れました。
今日はそれを少し掘り下げてみたいと思います。
2、絶頂期を迎えるまで
Wikiによると、佐久間勝之は永禄11年(1568)の生まれ。
ちょうど織田信長が足利義昭を奉じて上洛したころですね。
戦国武将としては黒田長政や豊臣秀次、伊達成実らと同年のようです。
佐久間氏は桓武平氏三浦義明の孫にあたる家村が安房国狭隈郷を領したことに始まるとされています。
織田信長に仕え、「掛かれ柴田」に比して「退き佐久間」と殿軍を任されるほど信頼された佐久間信盛という武将がいましたが、
石山本願寺攻めが終結すると突如追放の憂き目を受け、
高野山でその生涯を終えています。
その信盛のいとこにあたる盛次の子が勝之です。
勝之には少なくとも三人の兄がいて、
長兄の佐久間盛政は「鬼玄蕃」とまで呼ばれた猛将、
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に従い、大いに戦って名誉ある死を迎えました。
三兄の勝政も柴田勝家に気に入られ、養子に迎えられるほどでしたので、ともに最期を迎えたとされています。
次兄の安政は勝之とともに生き延びて、紀州や小田原で秀吉と交戦するも
のちに許され、蒲生氏郷の家臣を経て、秀吉の直臣に。
関ヶ原や大坂の陣では徳川方について功を挙げ、兄弟ともに大名に列します。
各地に分散してはいるものの、安政は合計三万石、勝之は一万八千石と
戦国の荒波をよく乗り切ったというところでしょうか。
3、その後の佐久間家
そこでようやくお化け灯篭のお話。
上野の東照宮に高さ6mを超える灯篭を寄進した勝之は、さらに京都の南禅寺、名古屋の熱田神宮にも同じく奉納し
日本三大灯篭とも呼ばれているそうです。
東照宮は言うまでもなく、徳川家康を祀った神社ですので、一時は浪人にまでなった自分たち兄弟を引き立ててくれた感謝と、家康の子孫たちへ自分たちの忠節を示すための意味合いが込められていることは容易に想像ができますね。
南禅寺は京都や鎌倉の五山という格式を超える最も幕府から尊重されていた禅寺です。
家康の懐刀であったとされる以心崇伝によって復興されたことでも知られる名刹。
そして熱田神宮は佐久間家が飛躍するきっかけとなった桶狭間の合戦の前に織田信長が参詣したことで知られる神社です。
灯篭の奉納先として選ばれた三つの寺社を見ると、なんとなく佐久間勝之の心情が滲み出てくるような気がします。
しかし悲しいかな。
勝之の家はひ孫の代に4代将軍綱吉の勘気を受け改易。
兄安政の家も若くして当主がなくなるという悲劇が続き、無嗣断絶。
ともに大名としてお家を残すことができなかったのです。
旗本レベルでは勝之の三男勝種と信盛の子、信栄の系統の子孫が続いていたようです。
ちなみに佐久間象山が安政の系統だという説もありますが、信ぴょう性はイマイチです。
毀誉褒貶は世の常ではありますが
一つの灯篭からでも多くのエピソードが想起されるものですね。
知っているからこそより楽しめる、これが歴史の醍醐味です。
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