第229回 忠臣蔵!

1、この話題をスルーはできない

本日12月14日は大石内蔵助ら赤穂浪士四十七士が吉良上野介の屋敷に討ち入り、その首級を挙げた日だということです。

Twitter界隈でもこの話題で持ちきりでしたので、歴史好きとして触れずにはいられませんでしたので、すこし整理してみようと思います。

2、時系列と事実だけ

今更とは思いますが、事件のあらましを私なりにまとめてみると

元禄14年3月14日 (旧暦) (1701年4月21日)、赤穂藩主、浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で、高家である吉良上野介義央で切りつけるという事件が起きました。

この日は天皇の使者である勅使が訪問しており、その饗応役を務めていたのが浅野内匠頭で、その指南役が吉良上野介だったのです。

動機は結局本人しかわからないことで、内匠頭が即日切腹したことで、自ら語ることもなかったので、真相は闇の中です。

筆頭家老であった大石内蔵助は当初は内匠頭の弟を後継にしたお家再興に希望を託していましたが、それも叶わないとみると、仇討ちに目標を変え慎重に準備を進めます。

そして、ついに元禄15年12月14日 (旧暦) (1703年1月30日)、47人で吉良の屋敷に討ち入り本願を遂げることになります。

3、よく考えてみると簡単な話

江戸時代に講談の題材になってからは脚色が進んで史実が曖昧になってきましたが、

武将ジャパンというサイトを運営している長月七紀さんのまとめがすごく明快で参考になりました。

特に目から鱗だったのは

この事件、年明けには忠臣蔵として舞台になっているのですが、脚本家や役者、観衆のほとんどが詳しい経緯を知らなかったでしょう。

という言葉。

後世の我々は歴史家の研究のお陰で幕府上層部の考え方や赤穂浪士各人が討ち入りまでの一年間でどう生きたのかある程度わかりますが、同時代の人はほとんどわからなかったのでしょう。

そりゃあ面白おかしく話しは広がりますよね。

あとは浅野が善玉、吉良が悪玉という図式が成り立たなくなってきたということ。吉良上野介は両国では名君として慕われていたようですし、

逆に浅野内匠頭は癇癪もちだったとか。

母方の叔父、内藤忠勝もお役目の上席であった永井尚長に対して刃傷事件を起こしているので、遺伝的な問題を抱えていたとも言われています。

また前述の記事にもあるように、現代の視聴者に、どんな遺恨があるにせよ、ひとりの老人を引きずり出して敵討ちをする、という構図が支持されるとは思えないですよね。

4、大河ドラマで思い出す頃

1999年のNHK大河ドラマは「元禄繚乱」というタイトルで、一年かけて丁寧に四十七士の葛藤を描いていました。

もう20年近く前ですね。私は高校生でした。

内匠頭を東山紀之さん、上野介を石坂浩二さん、そして内蔵助を5代目中村勘九郎さんが演じていましたので、その名演は印象に残っています。

ただ正直話の中身は覚えていないんですよね。刃傷事件の前後と討ち入りの場面しか思い出せません。

あとは昼行燈と呼ばれて仇討ちの本心を隠してのらりくらりする様子とか、

堀部安兵衛の高田馬場の決闘も描かれていたような気もしますが、阿部寛さんの印象がないので別なドラマと混同しているのかもしれません。

あとは巴紋の陣太鼓と新撰組に受け継がれた火消し装束が描かれたオープニング映像が脳裏に焼きついています。

かなり豪華な配役ですし、再度見直したいという気持ちが沸き起こりますが全編はかなりのボリュームですので、総集編だけでも見たいところです。

読者の皆さんにとって忠臣蔵とはどんなイメージですか。

また大河ドラマでもう一度見直したい作品などあったらぜひ教えてください!

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