第208回 兄弟の確執と権力

1、謎の遺構が示すもの

金閣寺として知られる京都北山の鹿苑寺。

京都市埋蔵文化財研究所の調査で、ある建物の遺構が見つかったという報道がありました。

建物の規模は南北6m、東西5.4mと小規模ながら、残っていた礎石を加工して見栄えを良くするなど足利義満の意向が反映されているのではとみられています。

もっとも特徴的なのは建物が解体された後、その地面を覆い隠すように20㎝の厚さで粘土を貼り付けていたこと。

建物が解体された場合、礎石を転用したり、盛り土してかさ上げすることは珍しくありません。

ですが特に再利用されることもなく、均等な厚さの粘土でパックするというのは、なにかを封じ込めるような意図を感じてしまいます。

このことから足利義満と息子の義持の確執に思いを巡らすのは不思議ではないでしょう。

2、文献史学の成果でどこまでわかったか

ちょうど今話題の新書
『室町幕府全将軍・管領列伝』を読み進めていたところでした。

足利義満の項は岡野友彦氏、義持の項は下川雅弘氏、義嗣の項は平野明夫氏が執筆を分担されています。

親子の確執としてよく取り上げられることとしては

A.義満の死後、朝廷が「太上天皇」の号を送ろうとしたところ、義持が辞退した。
B.晩年の義満が弟義嗣を寵愛したこと
C.義満の外交政策を否定し、明と断交したこと

などが挙げられますが、ことは単純ではないようです。

例えば

義持は義満の後継者として朝廷内の官位は破格の上昇を遂げており、冷遇されていたとは思われないこと。

義嗣にしても、義満自身の権威づけのために昇進や厚遇を与えていたに過ぎず、義持の代になっても当初は官位昇進を推挙するなど良好な関係を維持していたということ。

結局義嗣は上杉禅秀の乱に関連して突如出奔し、捕らえられ、殺害(自害という説も)されてしまいます。ただ、抵抗した様子はあまりなかったとされています。

義持の外交政策にしても、当初は朝鮮との通交に活路を見出そうという意思がうかがえるなど、単に否定ありきではなく、当時の状況から判断したまでのこと、という方が自然でしょう。

現在のところ、遺構の異様さと結びつけるような親子の確執を裏付けるものはなさそうだ、と考えた方が良さそうです。

3、悲劇は何度も繰り返される

偉大な父の死後、兄弟が複雑な心境で向かい合い、最後は悲劇を生むという筋書きで思い出したのは

三国志で名高い曹操の息子、曹丕と曹植のこと。

曹丕は王者の後継者として体制を盤石にしつつも、父に才能を愛された弟へ辛く当たります。

曹植は詩文で名を残すも、兄とその子で三代目となった曹叡に疎まれ、政治的に立身できないのを嘆いたまま亡くなります。

義持と義嗣にも互いにしかわからない想いがあったのでしょう。

現代の我々は、考古学的事象を安易に解釈することには注意しなくてはいけません。

面白さと史実性のバランス感覚を持つ人間になりたいと常に思います。

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