第477回 とってもローカルな話
1、時には鉄道の歴史
本日は過去一で狭いスケールの話です。
先日のnoteの中で小牛田駅で松島電車に関する展示をしていたことに触れました。
展示自体は写真撮影禁止でしたので紹介できませんが、
題材となった松島電車の歴史について少し紹介したいと思います。
2、わずかな期間でも
松島電車は大正11年(1922)2月4日から昭和13年(1938)1月まで営業された電気鉄道です。
わざわざ「電気鉄道」と書いたのは意味があります。
大正時代の鉄道はまだ蒸気機関車が主流で、ミヤギでも電気を主な動力源にした私鉄は初でした。
というのも当初この路線運営を企画したのが遠田電気株式会社で、
自分たちの会社で発電した電気の供給先として鉄道を見込んでいたのです。
実は大正時代には民間電力会社が乱立していたってご存知でしたか?
わずか100年ほど前のことですけどね。
さて、松島電車の開業当時、すでに東北本線(旧山線:明治23年盛岡まで開通)がありましたが、
当時の松島駅は内陸にあり、観光地である松島海岸エリアまでは馬車での輸送に頼っていました。
『松島町史』通史編1 所収の図に加筆
遠田電気は大崎水電株式会社に吸収合併され、さらに県が進める電気事業公営化の流れに飲まれるなど紆余曲折がありました。
工事も当初期間より延長され、総工費も計画の2倍を超えましたが、なんとか大正11年1月に完成します。
創業当初は乗降客数、収入ともに予想を上回る業績だったようです。
半年ほど経って鉄道事業のみ切り離して、県から元の大崎水電関係者に払い下げられました。
大正11年の夏には車両が不足して乗客を収容しきれないほどの好況で、新規車両を購入することになったと報告がなされています。
ところが昭和に入ると赤字が続くようになります。
その原因は一つに経済不況による観光客の減少と夏の繁忙期と冬の閑散期の落差が大きいこと、
第二に競合する宮城電鉄(後の仙石線:昭和3年全線開通)やバスの進出が挙げられています。
様々な施策を試みますが、改善には至らず、大正13年1月に営業は中止されます。
その後再開されることなく、いつしか忘れ去られていくことになります。
そこで冒頭に紹介した有志が、
松島電車が通っていたころの面影を残す地点の写真と
復元イラストを使って展示会を開催したということになります。
※すでに終了しています。
いつも何気なく歩いている道に、実は鉄道の痕跡が隠されていたということに驚きました。
3、幻となった鉄道
経営不振となった松島電車が活路を見出したのは鉄路の延長。
いくつか計画があったようですがそのうち二つをご紹介すると
一つは五大堂からさらに船着き場まで延線して、松島湾内を遊覧する船との連絡を図る計画。
松島電車が終点としていたのは重要文化財五大堂
伊達政宗が再建した由緒あるお堂で、松島が紹介されるときに必ず映像が出てくる、顔となる景観です。
遊覧船と文化財建造物という当地のメインのコンテンツを繋ぐアイディアでしたが、
海を望む位置にある海岸商店街から反対されてしまいます。
また公園整備という観点からは日本庭園協会から反対陳情まで出される始末。
もちろん実現には至りませんでした。
もちろん海に浮かぶ島々を売りにした観光地ですからそこに近代的な鉄道が走っていると景観を損ねているように思うかもしれません。
ですが100年経った今では海岸線に沿って走る鉄道は絵になるように思えますし、
現在、国道を復興工事のためとはいえ大きなトラックがビュンビュン走っている光景をみると
どっちが良かったか考えてしまいますね。
もう一つは、大和町の吉岡までの延線。松島と隣接する黒川郡(大郷町、大和町、大衡村、富谷市)は現在まで鉄道が通っておらず、
予定沿線の地域からは非常に期待されますが、株主を集めるのも苦労したようです。
黒川軌道株式会社が設立され、認可まで得ていたようですが、結局は経済上の理由ということで断念されました。
今や政令指定都市仙台の北に隣接し、ベットタウンとして人口が増えているこの地域。
ここと観光地松島が鉄道で結びついていたら
物流も人の流れも大きく変わっていたでしょうね。
廃線というのはどうもノスタルジーを掻き立てられてしまいますね。
ぜひ読者の皆さんのお住まいの地域で
オススメの廃線がありましたらコメントで教えてください。
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