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書も持って、街へも出る。

よう、新卒のお前ら。ruggirl木之元だよ。
元気にしてるか?ぼくは元気をなくして探しっぱなしの毎日だ。探してる間に春がきた。情けないね。

こないだ眠れないままに小、中学時代のアルバムを見ていた。なんかセンチメンタルになったから勢いに任せて書いてる。幼少期からの話だ。
駄文になると思うが許してちょうだいネ。

この子、変わってるわネ。

ぼくは2002年11月25日13時36分(母子手帳に書いてた)、当時30歳の父と母、九つ上の兄の元に、大阪府摂津市というところで生まれた。
逆子だったらしく、医者がぼくを吸引するような機械で吸い取って産まれたため、柔らかい赤ちゃんの頃のぼくの頭は変形して尖っていたらしい。
今ではまんまる綺麗な頭になってよかった。

まあ大層元気な子で、人よりも早くハイハイができるようになったし、お乳もよく飲んで元気な男の子だったらしい。自分のことなのに他人事のように話すのはすごく違和感があるなァ。

ある日、父親がへべれけ状態でぼくを抱っこしていた。もちろんへべれけなので、ただでさえ頼りないぼくの父親が何も事件を起こさないわけはなく
(両親はぼくのTwitterをフォローしているらしいのでこれが見られたらどうしよう。)、ぼくを真っ逆様に地面に落とした。

全治3ヶ月である。

というのも重症ではなかったらしく、頭の骨が少し欠けたらしい(本当かよ)。
しばらくヘルメットをつけた可愛い赤ちゃんとなったらしい。医者は「脳には全く影響ありませんね。」と言っていた。

それから、信じられないくらい鈍臭い子になった。

ハイハイは人の数倍の速度になり、
お乳も全て噴水のように吐き出すようになった。
そのまま成長し今では食欲のあまりない細ーい成人男性である。

父親は剣道で高校に入学しているし、母親も陸上でかなりの記録を残している。その子の運動神経が
悪いはずないのだ。そして幼稚園児になった。

跳び箱は?

跳べない。

かけっこは?

遅い。

ボールは?

獲れない。

そう、UNDO-ONCHIである。
その代わり、人よりも芸術センスは尖っていたようで、カエルの絵を描くときに雨を赤で描いて
「ちのあめかいたの〜。」と言っていたり、
Andrew W.K.のジャケットの影響から、
「ばあば、きよしろう、あかいちが、だ〜いすきやねん」と祖母に言い放ち戦慄させてしまったり、
買い与えられたポケモンのゲームでは、律儀に夜になるとマサラタウンの家に帰ってきたり。
超サイケな絵を描いたり。

変な子やね。と言われるようになった。

当時のことはよく覚えているのだが、「変」の意味はよく分かってないものの、「HE-N」というおもしろ発音にすごく惹かれていて、「変」と言われることが嫌いになれなかった。むしろ「変」と言われることと絵を描くこと以外に興味がなかった。
母親もそんなぼくが心配だったらしく、

ぼくを摂津市の絵画教室に連れて行った。

そこで、油絵やらクレヨンやら鉛筆やらで
写実的な物やシュルレアリスムぽいものなど色々と絵を描いた。小学1年生ながらにショボい賞をいただいたこともあった。宿題もしないぼくにとって、毎週金曜日の放課後に絵を描くことは時間を忘れられる唯一の手段だった。

ほどなくして、ぼくは父親の転勤で摂津市を離れることになった。

小2、転校生として新しい小学校に入学したぼくは、
「くだらない男が入ってきた」と思われたくなかったため、自己紹介で酷いくらいふざけたのを覚えている。まぁ小学生の笑う基準なんて面白いか面白くないかじゃなく、「おしり」か「うんち」か「知ってる人が変な事してる」の3択なので、どれも違ったぼくはドン滑りした。のに、馴染めた。

小学生とは訳のわからない生き物である。
同じクラスでウルトラマンが好きという事で意気投合した同じクラスのまっちゃんという友達もできた。あと地元のサッカークラブにも入った。
クソの役にも立たなかった。

しばらくして小4、そのときハマっていたマキシマム ザ ホルモンの糞ブレイキン脳ブレイキンリリィを
歌いながら漕ぐ自分の自転車のスピードがとんでもなく速いことに気づく。唐突にだ。
小学生ながらにママチャリとは思えない速度を出していた。そのときに仲良かったかずやくんは、
BMXという習い事をしており(競技自転車)、
それに勧誘された。
「なんか運動できないぼくもできるんじゃないか」
という気持ちであった。

が、しかしぼくにそんな能力あるわけもなく、
レースでは6人中3位、特筆するほどでもなかった。
大会を見にきていた両親は、「ピクニックに行く自転車みたい。」と茶化してきたほどに。

「それじゃあ、技を極めよう」と思ってウィリーを習得した。が、調子に乗ってやりすぎて後ろに横転し股間を強打した。それがきっかけで自転車が怖くなり、次第に行かなくなった。

最終的に小学校の文集で書いた将来の夢は
「マキシマム ザ ホルモン、ウルフルズみたいな
バンドをやりたい。」であった。ナメんな。
あと、勉強はできた。

中学に入学した。

相変わらず音楽と絵以外に好きな事のないぼくは、
まっちゃんも引っ越してしまったので、
友達ができるか心配だった。
他の小学校から来る連中は背がビビるほどデカい。
「友達ができないなら恋愛をしよう」とませてみるものの、勉強以外にできることは何もなかったので、好きな子はやはり他中のバスケ部みたいな奴に取られて行った。

しばらくして、美術の授業中にぼくがいじめられる発端となる出来事が起こった。

この記事に詳しいことは書いたし、ライブでは
いじめっ子の実名をフルネーム公開している。
ナメるな。

ぼくは満足に中学時代に厨二病を発散できる場所が無かったため、未だに罹っている。
勉強はできた。
中学時代の記憶はこの程度しかない。
あー、懐かしかった。

ぼくは今までもずっと、書を持って家に籠りぱなしであった。絵を描いたり本を読んだり、音楽を聴いて、聴いている音楽もそれが全てだと思っていた。
手遊びが最も楽しいコンテンツであった。

寺山修司が「書を捨てよ、街へ出よう。」と言ってくれた。ぼくはずっといじめられた過去や変わり者だった頃のことをウジウジしていた。
街へ出ようと思う。変わり者がどれだけ変わっているかを確かめに出るのだ。
世の中にぼくの知らない音楽がどれ程あるのかを
確かめるために出るのだ。

でも、ギタァと書は捨てないよ。寂しくなったときに読むし歌えるし枕にもなる。最悪売ったらお金になるしね。そういう、ぼくの書を持って街へ出ているという活動の一環がruggirlである。

しつこいようですが、ツアーやりまつ。

2024.5.2 大阪 寺田町fireloop
2024.5.22 愛知 栄Party'z
2024.5.28 東京 下北沢近松
2024.6.3 大阪 寺田町fireloop studio

書を持って、街に出るよ。会いに来てください。
まだ会ったことない君に会いたいのだ。

ほな。

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