<第42回>「キャリア教育」の時代<その2・・・大学生篇>  ~ 社会でサバイブしていくための生きる力を与えたい


埼玉工業大学

 前回は、キャリア教育の社会人篇を書いたので、今回は一つ年代を下げて大学生篇の投稿です。

 大学の専任教員として7年前から働いているので、そのことを知っている方は「大学における具体的な『キャリア教育』の実態を書くのか?」と想像される方もおられるかと思いますが、全くそうではありません。確かに大学教員は研究や教育以外にも役割が与えられており、私は「就職委員」として就活指導も行っているのは事実なのですが・・・。

 私自身、大学での授業は、ゼミも含めて「全て」が「キャリア教育」、つまり大学生が社会に出てサバイブしていくためにやっているのです。

 と言うのも、大学教員に公募に応募した動機が、「自分がビジネスパーソンとして得たことを、社会人生活を控えた大学生に知ってもらうことによって、少しでも楽しく、ポジティブに人生の荒波に漕ぎだしてもらえるようにしたい」ということだったからです。


 では、私が「全ての授業は社会でサバイブするため・・・」と考え、大学生に学んで欲しいと望んでいることは何か?
 
 それは
「自分の頭で考え、そして行動する姿勢、そして成功しても失敗しても常に学んで成長していくことの重要性」

とでも言うことです。

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 もちろん「経営」を教える実務家教員ですから、ビジネスにおける知識や経験について教えることが大事なわけですが、知識や経験は、直ぐに陳腐化するものであり、知識そのものよりも、社会に出てから「ずっと使える」ことの方が重要なのです。
   

 ところで、先週の木曜日(12月24日)、大学の専任教員としての最後の授業が終わりました。今年度は、あと課題レポートの提出、採点、成績評価で終了です(入試関係のお仕事もありますが・・・)。
 そして3月には65歳の定年退職ということになり、来年度は非常勤講師として週に1回程度のオンライン授業のみということになる予定です。

 思えば、この7年間、グーグル検索を大々的に取り入れたアクティブラーニング、グループワーク、じゃんけん大会による前回授業の総括・・・様々なアイデアを交えた授業によって、大学生の脳みそに手を突っ込むようにして、ともすると考えることをサボったり、考える訓練が出来ていない学生に、とにかく「考える」ことを無理やりでもやらせる戦いを繰り広げてきました。

 常に心掛けてきたことは、学生に真正面から対峙して「問いかけ続けること」でした。

と言うのも、学生たちが高校までに受けてきた授業、あるいは教育というものは、

・「先生が黒板に板書した内容をノートに写すことが授業を受けることの大きなウエイトを締める
・ → 試験では、板書した内容を一夜漬けで暗記して試験に臨む
・ → 覚えた知識はアッという間に消えてなくなる
・ → その結果、①「知識が蓄積されず、数学、英語といった積み上げの勉強では、あっと言う間に落ちこぼれてしまう」、②「与えられた知識を覚える受身の姿勢が身につき、能動的に考えることを忘れる」
・ → 大学受験は、AOや指定校推薦など、「試験を受けずに入れる制度」で入学してきた学生が大半であるため、昔のように、受験勉強の努力の中で、落ちこぼれ科目も含め、高校でマスターできなかった内容をリカバーする機会がない

 という悪循環に陥ってしまっているからです。

 国語、数学、英語の主要3科目について大学教員の経験としては、国語については、まあ漢字が苦手な学生は結構多いものの、友達や家庭での会話やスマホでの読み書きがあるので、そんなに酷いことにはなっていない印象があります。もちろん、国立情報学研究所の新井紀子教授の読解力に関する調査https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20180211-00081509/ にあるように、実際はそんなに楽観できないのは承知の上です。

 問題なのは英語や数学です。3教科以外でも、歴史なども致命的に大学生は知らないのですが、それには今回は触れません。
 英語や数学について、プレミア大学(伝統校)以外の大学生のレベルは、「驚愕」するレベルなのです。

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  英語で言えば、日常出てくる日本語化した英語でも、壊滅的です。ある時、「プラン」と言って、「もしや」と思って、「プランっていう英語わかるよね?」と質問すると、「英語苦手なんで・・・」という言葉が返ってきました。恐らく「プラン」という日本語は、ちゃんと良く考えれば意味は思い出したのでしょうが、「英語」と言った瞬間にすぐ思考停止、脳に壁がそそり立ってしまったのではないかと思います。

 こんなこと書くと、「嘘だろ、日本人は中学生から6年間も英語やっているんだから、英会話はダメでも、読み書きは出来るはずだ」と昭和のオジサンは思うかもしれません。そんなことはありません。情報過多の今の時代に、基礎学力のついていない学生たちにとっては、「わからないことは、とにかくスルー」していかないと身が持たないのです。
 先週の授業でも「トラベル」がわからない学生が大勢いて悶絶した次第です。


 数学に至っては、もっと酷い状況と言って良いでしょう。
英語は実際問題として、就職しても、ドメスティックな産業に就職した場合には、出来なくてもビジネスライフでそれほどの致命傷とはならないのが現実でしょう。
 しかし、算数及び初歩的な数学の場合は、仕事に中で頻繁に使わざるを得ません。
「大学生が『%』を分からない日本の絶望的な現実」https://toyokeizai.net/articles/-/278180 に指摘されている通りです。

新井

 パーセント、分数、前年比、といった日常の社会生活、ビジネスの基本として使う概念が全く理解できていない大学生が多い、クラスの一人や二人ではなく、「大半」なのです。

新井

 着任1年目に「ミクロ経済学」を担当し、「需給と供給で価格が決まる」という、既に学問としては時代遅れになっていると私が公言している(通常の)「経済学」の中で「唯一、経済理論の内、世の中で通用する根本的な原則」を説明する必要が生じました。
 方程式、微分など数式での説明は最初からハードルが高いと思ったので断念して、ビジュアルな感覚でも理解できだろうとグラフで説明したのですが、結局需給の変化によって価格がどう変化するのかを数10人の学生ほぼ全員に腹落ちさせるために、延々5時間を費やしました。
 「グラフというのは、X座標とY座標の組合せを縦横の平面にプロットした点を結んだものであり・・・」から解きほぐし、2次関数の形状、両曲線のシフト、2次曲線の接戦・・・など教え、何とか「理解」してもらえました。
 「これでもか、これでもか」と反復して、グラフを体で考えさせる体験をさせ、学生からは、「先生は、『わかる喜び』を教えてくれた」と言われたのは良かったのですが、当方としては、頭はクラクラ、「オイオイ、グラフの意味だとか、1次方程式を解くということはどういうことなのかだとか、こんな基本的なこと、高校のうちにちゃんと理解させておいてくれよ!」という気になったのが正直なところです。

 大学でも、日本の「高等教育」を担う機関として、それなりに高度な内容や「考える」授業を展開するための基礎を、高校以下のときに期待してばかりはいられないので、大学1年生で、漢字の練習や英語の基礎、数学の基礎などもやらざるを得ないのが実態であり、ようやくこうした涙ぐましい努力によって、大学教育は成り立っているのです。
 よく、「偏差値の低い学生は、大学なんかに行く必要はない」と言う方がいますが、一部のプレミア大学の優秀な学生以外についての現在の教育状況の中では、ビジネスパーソンの必須学力は大学に行って初めて使えるレベルに到達しているのではないか、と個人的には感じています。


 こういう大学生たちではありますが、私としては、この7年間
・「基礎学力や一般教養」
・上述の「常に自分の頭で考え、行動し、学んでいく姿勢」
・経営や情報に関する実務知識

を同時並行的に学ばせることに心を砕いてきました。
 様々な工夫や、トライ&エラーの努力の甲斐があったのか、それなりに手ごたえを感じながら大学生を社会に送り出してきたという自負があります。
 7年間、「考えること」「行動すること」「学ぶ姿勢」を強調してきた私ですが、さてさて、私の大学における「キャリア教育」は、効果を挙げることが出来たのか?それは7年間の教え子たちの今後の頑張りにかかっているように思います。

 教え子たちの英語の能力については高校までの欠落分は昨今の翻訳ソフトの飛躍的な進歩によって、数学についてはIT、とりわけAIなどの進歩によって、キャッチアップ出来れば良いのだが・・・と願っているのですが。

数字


 大学で教えていると、どうしても上記のように、「高校までの教育・・・何とかして欲しい!」「大学生ではもう遅い?」との思いが強くなってしまうわけです。

 この点については次回、「キャリア教育・・・小中学校篇」で書きたいと思っています。


<ターンアラウンド研究所 https://www.turnaround.tokyo/  小寺昇二>
※当社では、キャリア教育についても事業を行っています。自治体、学校法人でご興味のある方はコンタクトをお待ちしています。


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