<第34回>構造変化は起こらない?  ~ DXは進むだろうが、それって・・・

変化

 このコロナ禍で皆が気づいたことは、「これまでの生活が幸せなものであり、それが今回のように何かのきっかけで大きく制約を受けるような砂上の楼閣だった」ということであるように思いますが、同時に「日本の政治家って本当におバカだな」とか、「日本の行政、官僚機構って、本当にボロだ」といったことも明確になってしまったのではないでしょうか?
 幸せな日常のときにはテレビを点ければ出てきた、「日本スゲー番組」はすっかり影を潜めてしまったように思います。

役所

 不自由な生活の中で、「今後全てが変わる」と断言する人もいます。

 さて本当に全てが変わる、つまり「構造変化」は起こるのでしょうか?


 振返ってみれば、日本において人々の意識や行動に大きな変容を強いるような出来事には、直近では2011年の「東日本大震災」がありました。震災直後にTVに映る公共広告機構のコマーシャルを見ながら、「これからどうなるのか?」と不安を感じ、色々な変化を感じ取った方も多かったように思います。

 しかしながら、あれから9年が経ってみて東日本大震災で変わったことは何だったんだろう?と自問しても答えがないと気づき、つまり東京で生活している者にとっては、大震災の影響は一時的であるかのように感じられることであり(本当のところは別として)、影響が今にも残っているのは地域的な偏りがあるものであった、つまり被災地とそうではない地域の温度差はもの凄く大きかったということなのではないでしょうか。

 それに比べれば、今回のコロナ危機は、Covid19に限らずウイルスによるパンデミックが今後も頻発するであろうと予想されていること、影響は全国的どころか全世界的なものであるため、その社会に与えるインパクトはかなり大きく、かつ長く続く可能性がある・・・ということから、「全てが変わる」可能性のある出来事なのかもしれないという意見も簡単に切り捨てられるものではないように思えます。

 しかし、それなりに長く生きてきた者としての感想は、「世の中ドラマチックには変わらない・・・構造変化はそう簡単には起こらない」というものです。

 と言うのも、過去何度も、そんな気分になり、そのたびごとに結局、そうはならなかった、という思いが強いからです。

 過去、例えばまだ若くて感受性が豊かだった1990年のバブルの崩壊、資産運用の最前線にいて心身ともにボロボロになり、「日本の金融機関は荒野の中に放り込まれる」「これから金融というものはコモディティになる」「金融はもう終わった」と確信したものでした。

バブル


 しかし実際に日本の金融機関の危機が訪れたのは、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が相次いで破綻した1997年を待たねばなりませんでした。そして私が長らく予想してきた「メガバンクの行き詰まり」も、昨年くらいから顕在化してきたわけで、タイムラグという点では、山一破綻から20年以上、バブルの崩壊からは何と30年近く経ってからだったというわけです。

 こうした例は枚挙に暇がなく、2001年の同時多発テロ、2007年のリーマンショック・・・・程度の差こそあれ、大きな影響を受けた人は、私がバブルの崩壊で感じたような「全ては変わる」的な感覚に襲われるのだと思います。

 しかしながら、上記のような社会を大きく動かす事件や災害などをつぶさに観察してきた者として私は、「構造変化というものは、そう簡単には起こらないものだ」と、とりあえず一般論ですが、断言したいと思っています。

 もちろん、上記のようなイベントの中で、人生についての価値観を変えたり、職業を大きく変えたり、といった経験をした人にとっては、「全てを変えたこと」として、そうした歴史的な出来事が存在し続けるわけですが、社会全体の構造や、物事にあり方について、ドラマチックに仕組みが変わると言うような「構造変化」はついぞ起こらない、と考えた方が良いように思います。

 明治維新、太平洋戦争での敗戦・・・・そうした社会制度の大転換を除いては、構造変化というものは起こらない、特に日本では起こらないというのが、印象です。

 そもそも明治維新ですら、幕末に幕府を中心とする統治体制は既に崩壊していて雄藩を中心とする維新後の体制に移行していた、という学説や、太平洋戦争後の所謂「1955年体制」についても、既に戦時下で形成されていたという議論を見かけたこともある位、構造変化というようなものは、一つのイベントでAからBにバーンと変換してしまうものと言うよりも、変換の直前から既に変化の萌芽が見られるのが一般的なものなのかもしれません。

 構造変化がそう簡単には起こらないのは、一つには、変化というものが一般的に「S字カーブ」を描くことによるのはないかと思っています。S字カーブというのは、0から時の経過に応じて最初の頃は上昇の角度が極めてトロく、ある閾値を超えたときに、ビヨヨーンと上昇の角度が大きく、かつ指数関数的に上るという形状を指します。今回のコロナ感染者の数もそうでしょうし、私が大学で今教えている経営学では、「プロダクトライフサイクル学説」、企業内の企業年金の累積なども、似たような経緯を辿ります。

S字カーブ

 プロダクトライフサイクル学説で言えば、商品が認知されるまでのリードタイムが必要であり、ただ一度認知され普及すれば、それが累積的に大きなムーブメントになっていくという社会の情報伝播のパターンを示します。

 変化が本格化するのにタイムラグがあることの定性的な理屈については、社会というもの、常に既得権者が存在し、急激な変化に抵抗するわけですし、既得権者への懐柔、経過措置の提示などの、変化を起こす「コスト」として、一定の時間が必要ということなのかもしれません。


 さて、では今回のコロナショックは、社会の仕組みを大きく変えるような構造変化を起こす出来事なのかと言うと、必ずしもそうではないのではないか、というのが私の変わらぬ予想です。

 但し、コロナショックの前に深く密かに?進行中だったこと、そして合理的に考えれば、もっと早く進行すべきであった動きが、急にそのスピードを増して、社会の変化を体現するということは起こりうると考えます。

 それは、多くの識者が仰るように、「DX」・・・デジタルによる変容です。

 但し、私が言いたいのは、単にリモートワークが進展するとか、ハンコ文化の息の根が止められるといったテクニカルなものではありません。もっと社会全体のありかた、産業界のあり方、もっと具体的に言えば、「日本企業のあり方」に係るものなのです。

 そもそも、DXと言う言葉の本質は何なのか?そしてこの言葉が日本で注目されている理由は何なのか?そこからじっくり考えてみる必要があります。

デジタル

 DXと言う言葉は、デジタル「による」変容であり、決してデジタルそのものが有効活用されるということのように、テクノロジーが主体になるようなことではありません。
 日本の産業界の場合、あくまでもテクノロジーをツールとして、「失われた〇〇年」と揶揄されて遅れていたものが、復活を遂げる可能性があるということなのです。

 つまり、「ものづくりやサービスの質の進化そのものに拘り過ぎて、テクノロジーの進化に遅れてしまって、ものづくりの技術やサービスの質の素晴らしさなどを活用できずにいる日本企業」の起死回生のチャンスではないか、ということです。

 DXという言葉がバズワードとしてメディアを騒がすようになる前に、テクノロジー関連で良く使われた「IoT」(全てのものがインターネットに繋がる⇨いつでもどこでもインターネット)という言葉は、テクノロジーそのものへの取組みに不熱心であったがために、プラットフォームを米中企業に全部持っていかれただけでなく、デジタルの力(再現性や標準化)で、日本が得意なアナログでの職人芸的なものづくりやサービスが高コストになってしまった状況に大逆転を可能にするかもしれないツールとして期待されたわけです。

 アナログ的なリアル(オフライン)の日本の優れものを、IoTによってオンラインに繋げ、ビックデータやAIというツールの力を借りることによって、まだ優位にあるアナログでの日本の本質的な力を、オンラインを交えたトータルなものに創り上げて競争力に変えるものでした。

 一方、オンラインの世界では、OMO(Online merges Offline.)として優れたオンラインがオフラインを飲み込んでしまって、それによってトータルな優れものが出来るという風に、オンライン、例えばネット通販が進化してきています。
 しかし、テクノロジーの活用がイマイチで、テクノロジーのプラットフォームをGAFAやBATHに握られてしまっている日本企業、日本の社会の場合には、オンラインが主語となるOMOという考え方ではなく、逆に手持ちのオフラインがようやくオンラインを手に入れて、トータルなものに進化していく、と言い換えても良いように思います。敢えて言えば、OEO(Online empowers Offline)ということでしょうか。

 日本におけるDXというものはIoTの延長線上にあり、いよいよ日本企業がコロナ禍で「結構テレワークも使えるジャン」「これからはテクノロジーを使いこなせないと企業活動もままならぬ」と、お尻に火が点いていることに気が付いて本当に動き出す、それがコロナ禍における変化の本質なのではないかと思うのです。

 但し、日本の企業も、日本の社会も、ただ単にオンライン化が進むとか言ったことがDXなのではなく、DXを一つのきっかけとして社会や企業のありようを、そもそもの根源に立ち返って見つめ、必要なことは変えていくというきっかけにしなければならないのでしょう。
 識者の中にはCX(Culture Transformation という方もいますし、Corporate Transformation という方もいるようです)という言葉使っているようですが、これまで本当ならもっと早く変化しなければならなかった「変化」をデジタルの力で進めていくということなのだと思います。

 何年か後に、「構造変化なんて起こらないと思ったけど、振返ってみれば2020年のパンデミックが、日本の社会や企業が良くなるきっかけだったな」と思える日が来れば良いのですが・・・。

 日本では緊急事態宣言も終了し、徐々に、通常の生活、会社では勤務体系に戻ってきている今、今後の社会の変化、特に、現在のバズワードであるDXという言葉について真面目に考えてみるのも大事なのではないかと思います。


<ターンアラウンド研究所https://www.turnaround.tokyo/  小寺昇二>

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