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キャンパスレェフ

当たり前のように対面授業を受けていた2019年。2年経ってついにキャンパスでの活動が全面解禁されると、自分が最高学年になっている。どう考えても変な話だ。

今日感じたことをメモ程度に残したい。

まずは人の多さに驚いた。驚いたなんてもんじゃない。ちょうど昼休みのタイミングであったこともあるが、もともと弊学がどれだけの学生数を抱えているのか、まざまざと見せつけられた。これはオンライン授業も運営する方としては苦労があったに違いない。

構内のコンビニも、敷地外の1番近いコンビニも、とてもレジまで辿り着けそうに見えなかった。

嬉しいことは、喫煙所が全て解放されていることだった。最初に緊急事態宣言が出て以降、ドアがついて密閉されているタイプの喫煙所は閉鎖されており、雨が降ろうが風が吹こうが、屋外で吸わなくてわならなかった。そもそも2箇所しか使えなかったので不便である。

だがドア付きのものは「定員4名」という札があるのに、7人くらいが同時に使っていた。もう片方はたまたま3人しかいなかったのでそちらを使ったが、日頃お世話になっている煙草屋の喫煙室は外に並んででも皆人数制限を守っている。というか、我々はそうして信用を勝ち取っていかなくてはいけない存在だと思う。

授業のために講堂へ向かう。

始まる15分前に行くと、既に座席が殆ど残っていなかった。チャイムが鳴ってようやく教授が現れる。しかしなかなか喋らない。パソコンをいじって何かと格闘している。どうやら人数が多いことに動揺していたらしい。面白いことを言う。

そして「Zoomの方きこえますか?」と画面に向かって問いかける。いや、Zoomあるんかい。講堂内の誰もがそんな反応を見せる。それもそのはず、シラバスでは基本的にどの授業も全回対面であるとしてあったからだ。

そのあと分かったことだが、現在大学に対しては制限レベル1の、基本は対面で必要に応じてオンラインという条件が設定されているのだが、シラバスはレベル0が前提で作成されているらしい。詐欺やん。

今日はガイダンスだけだが、明らかにこの手の授業は対面に向いていない。どの手の授業かというと、「文学史と社会史を踏まえて小説を読む」授業である。確実にオンライン向きで、向こうの環境音だけで充分なのだ。私文の私語パラダイスでは損なわれてしまう。ということを感じずにはいられないのは、この2年間まったく今まで知らなかった授業形態であるリモートというものを知ってしまったからに他ならない。

オンラインなら四方八方からのおしゃべりは無いし、今日みたいに「実は徹子の部屋を見ていたらすごく気分がゆ〜っくりしてしまって、だから私もゆっくりしたくなってるんですよね」なんてモソモソと言いながら何をしているのか分からぬが準備に手間取っているのだって、部屋でコーヒーでも啜りながらなら「ふふっ」と思えたに違いない。
そういえば2年次の演習で教授が話してる最中にカメラONのまま外に出て煙草を吸い始めた友人がいて笑ったが、あれはやりすぎだとしても、まあそういうゆったりした心持ちで受けられるのは確かである。

授業の説明だけなので定刻より1時間早く終わる。当然その次の授業まで長く空くことになる。何をして時間を潰したのか、あまり思い出せない。というか、何もしなかった。とにかく暑かった。

Googleフォトが「3年前の思い出」と称して写真を通知に出してくる。僕が大学近くの公園でひとり、パンを食っている時に寄ってきた鳩を撮ったものであった。思い出。思い出…。

3年前も4月11日が授業最初の週だった。なのに公園で1人飯をしている。哀しい事この上ないが、今日のキャンパスを見ていると無理もなかったろうと思う。

この人間の多さは、それまで地方の、しかも中高一貫で交友関係の移ろいが少ない環境で6年間を過ごした少年には少し過酷である。
これに関しては、どうにもならなかったような気がする。第1志望ではなかったのでルンルンで来たわけでもなし、そんでもって一緒に落ちた中学高校の同級生がいたことで、大学での新たな人間関係作りにマジになる必要がさほど無いように感じられていたのだった。

まあ少人数のクラスとか各々のサークル活動で気の合う人間も見つかるし、大抵はそんなもんだけど、やっぱあの中庭に広がる学生の群れ、まさに群れだが、あれを見ていると、大学生を楽しむにはとてもバイタリティが要るように思えてならないのだった。

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