2019年 F1 カナダGP レビュー

グランプリが盗まれた。
我々の手から何者かにグランプリが盗まれた。
何者かとはいささか曖昧な書き方だが、少なくとも後世から見たら2019年のカナダGPというものは、このレースを境にグランプリのあり方が変わった、そんなターニングポイントとして後世に記憶されるであろうグランプリだ。

それは間違いない。
そんな後世までF1があるかどうかは全くもって不明だが。

ヨーロッパラウンドはモナコで一旦お休み。サーカス一行は北米カナダ、ジルヴィルヌーブサーキットにやってきた。
初夏の風薫る、セントローレンス川中洲の特設サーキット。
ストップアンドゴーの古典的サーキットだが、ヴィルヌーブの名が冠されている通りなかなかハードでチャレンジしがいのあるサーキットだ。

ここまでほとんど無敵といって活躍を見せるメルセデス勢、ここでもその強さを見せつけるかと思ったが、ヴィルヌーブの名のもと不甲斐ない戦いはできないフェラーリが意地を見せてヴェッテルがポールポジションを獲得。
専制君主たるメルセデス支配下のグランプリで、革命のきっかけをようやく作る。
果たしてグランプリにとってここカナダがバスティーユ監獄となるのか。ほぼほぼ全てのグランプリフリークは、翌日の決勝に向け期待で胸が膨らんでいたのは間違いないだろう。(何度もいうが結局全てのグランプリフリークは、跳馬教の敬虔たる信徒である。)

よく晴れた空の下、決勝レースがスタート。
スタートは綺麗に決まった。
開幕からフェラーリを悩ましていたタイアの作動温度の問題については、ここでは大丈夫そうだ。
フェイズ2としたパワーユニットを持ち込んだフェラーリ。ストップアンドゴーレイアウトをもつこのサーキットでは、フェラーリの『直線番長』っぷりが有利に働く。
グランプリ随一の出力を誇る跳ね馬のパワーユニットは、こういうコースにめっぽう有利だ。
気温が28度まで上がる中、各チームはタイアを壊さないよう慎重にレースを進める。
ヴェッテルは2位を走るハミルトンに対して、一定の車間間隔をキープしながらレースをすすめる。
今日こそはフェラーリの勝ち、いやメルセデスに土がつくところを見られるかとの期待感でサーキットが包まれていく。
だが、やはりメルセデスは、そしてハミルトンは強い。じわりじわりとギャップを削り、40周すぎにはそのギャップは1秒差を切ってくる。
いかにフェラーリのパワーユニットがこのコースレイアウトに適しているからと言って、ここまでくると少々の馬力差はDRSで相殺されてしまう。
1秒差というのは現代のグランプリではそういう意味では全く価値の無いタイム差と言える。

こうなると有利なのは追う方だ。そしてヴェッテルはここ数年言われるように、こんな状況下での精神的コントロールが非常に脆い側面を持っている。
48周目のターン3から4にかけて、タイアをグリーンに落とす。
すぐにリカバリを行い、ハミルトンの前でコースに復帰したものの、これが危険行為と捉えて5秒加算のペナルティ。
すでにギリギリの状態で走っていたヴェッテルはここから5秒のマージンを築くこともできるはずも無く、わずかなギャップそのままにフィニッシュ。
優勝はまたしてもメルセデスにさらわれた。

結局、このペナルティ判断が全てであった。
ハミルトン、ヴェッテル共にマシンの限界値を引き出して、プロのドライバーとして最高のショーを見せてくれた。
これぞグランプリドライバーというレースを見せてくれた。少なくとも彼らが貰っている莫大なフィーに相応しいレースだったと思う。
それが48周目のアクシデントに対してペナルティがでたために台無しとなった。

レース後(いやレース中からか)、あらゆるマスコミ、ファンたちが問題にしていたのは、この裁定に一貫性が見られない点についてである。
コントロールを失ってタイアをグリーンに落とした後に、後ろを走るマシンの鼻先に復帰した場合、多くが「レーシングアクシデント」として処理されることが多い。
それなのに今回に関しては何故ペナルティとして処理されなくてはならないのか、という不満である。
フェラーリの久々の勝利が目前だったことも、この論議の加熱に拍車をかけた。
フェラーリはなんだかんだ言ってもF1より上位に位置すべき存在なのだ。

今回のスチュワードの裁定ははっきり言ってミスジャッジである。
彼らが間違った判定を下してしまったことに議論の余地はない。
メルセデスに対する忖度か、はたまたのぼせ上がったスチュワードの幼稚的な自己満足感の発露か、それはわからない。
ただし、ジャッジを人に頼っている以上、こういった悲劇は必ず起こる。
こういったミスを含めてグランプリというなら、我々は甘んじてそれを受け入れなくてはならない。
我々はF1やリバティの株主でもなければ、FIAで投票権を持っているわけでもない。
ただの無責任な外野に過ぎない。

だが、今回の件で最も醜悪だったのはレース後のヴェッテルの子供めいた抗議行動に対してF1がなんのお咎めも下さなかったことだ。
インタビューを放棄して、1位のボードを自分のマシンに移動させたヴェッテルに対してF1はその行動を不問とした。
自らのジャッジに対して自信があるならば、この行為に対して毅然と対応すべきである。
ここを不問にしてしまったのは、あのジャッジメントに対して少なくない後ろめたさがあるからであろう。
スチュワードの判定はそのまま履行するが、それに対しての抗議は目をつぶるよ、というのではF1の「フォーミュラ」の意味が薄れてしまう。
F1はFIAは、毅然とした態度でフェラーリとヴェッテルに対して臨むべきであった。
間違ったルール(判定)はそのままでだが、ガス抜きは認めるよ、ではグランプリを統治する資格は無い。
ヴェッテルのあの行動はパフォーマンスでは無い。
己のやったことに対して一点の曇りが無いからこそ、あの行動ができた。
ならばそれに対して、FIAもジャッジメントが持つ正当性を主張すべきである。

そういったこともせずに、ただただ権威を見せつけるFIAとF1のやり方は、有り体にいって卑怯以外のなにものでも無い。
グランプリは盗まれた。
我々の知っているF1はどこかに消え去った。
オーバテイクに関してここまで曖昧なルール運用が「判例」として残ってしまった以上、レースにおけるどんなオーバーテイクでも、疑惑の目で見ることが可能になってしまったということだ。
どんなオーバーテイクも、その時の気分次第で合法にもなるし非合法にもなる。
二度と我々はオーバテイクをスカッとした気持ちで見ることは出来なくなってしまったのだ。

断言しても良い。これからのオーバテイクは非常につまらないものとなるだろう。
贔屓のドライバーが前を走るライバルをパスしたところで、気になるのはペナルティの情報だ。
「抜いた!やった!さあ、ペナルティはどうかな?」
こんなことをこれから気にしてレースを見なくてはならない。
カナダでグランプリは盗まれた。
カナダでグランプリは重い重い十字架を背負うこととなった。
誰よりも鮮やかに、そしてアグレッシブに前を走る車に対して仕掛けていったジルヴィルヌーブ。彼の名を冠したサーキットで、グランプリはその性質を変貌させる舵を切った。なんとも皮肉なことだ。

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