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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(7)

著者 二宮俊博

緇流―桂洲・大典・六如

 ここでは学僧・詩僧として知られた人物を取り上げておく。


桂洲(正徳4年[1714]~寛政6年[1794])

 『日本詩選続編』の作者姓名に「僧桂洲 閑雲と号す。洛西天龍寺大和尚。西山延慶菴に卓錫す」と。『東山寿宴集』には見えないが、北海とは親交があった。『平安風雅集』に採録。臨済宗の高僧で、安永6年(1777)天龍寺二百二十一世となった。東陽より41歳上。先に挙げた『春荘賞韻』にも閑雲杜多の名で一首載せられている。
 『詩鈔』巻四に七律「桂洲長老に贈る」詩があり、初めて桂洲に面会したことを詠じている。

  法界天凉夜色澄  法界天涼しく夜色澄む
  勝緣相引謁高僧  勝縁相引きて高僧に謁す
  圓通禪味正三  円通の禅味 まさに三昧  
  直指宗風最上乘  直指の宗風 最上乗
  秋靜空山千嶂月  秋静かに空山千嶂の月
  林深古殿一龕燈  林深く古殿一龕の燈
  苦心慙媿書生業  苦心慙媿す書生の業
  文字由來屬葛藤  文字は由來葛藤を属す
  *眛は、昧の誤字。
◯法界 仏教語で、全世界。◯勝縁 よきえにし。◯円通 缺けることなく通達する。◯直指 言葉や文字に拠らず端的に示すこと。禅の極致を表す「直指人心見性成仏」の語が『伝心法要』に見える。◯千嶂月 連なる山なみにかかる月。宋・恵洪の五律「熏上人 雲渓に帰る」詩(『石門文字禅』巻九)に「夜楼千嶂の月、画榻一渓の雲」と。◯一龕燈 厨子の前に供えられた灯明。晩唐・李郢の七律「長安にて徹上人を訪ぬ」に「聞道きくならく天台旧禅の処、石房独り一龕燈有り」と。〈龕〉は、仏像をおさめる厨子。◯文字 詩文をいう。◯属 つづる。

また晩秋の頃、半月にわたってその延慶庵に長逗留したことがあったようだ。七絶「嵯峨延慶菴二首」其二(『詩鈔』巻七)に云う、

  方外逍遙半月留  方外に逍遙し半月留まる
  茶烟襌榻飫風流  茶烟禅榻 風流おほ
  白雲紅葉西山寺  白雲紅葉 西山の寺
  管領詩家富貴秋  管領す詩家富貴の秋
◯方外 世俗の外。仏寺をいう。◯茶烟禅榻 晩唐・杜牧の七絶「禅院に題す」詩に「今日鬢糸禅榻の畔、茶烟軽くあがる落花の風」と。『三体詩』巻一に「酔後僧院に題す」として収める。〈禅榻〉は、禅寺にある横長の腰かけ。◯白雲紅葉 晩唐五代の詩僧斉巳の七律「宜春江上、仰山の長老に寄す二首」其二(『白蓮集』巻八)に「白雲紅葉又た新秋」と。◯管領 とりしきる。◯詩家富貴秋 元・楊公遠の七絶「劉暁窓の九日の韻に次す十首」其九(『野趣有声画』巻下)に「黄花堆積し銭の流るるがごとし、粧点す詩家富貴の秋を」と。素寒貧の詩人でも秋は詩興が湧き、詩嚢が豊かになる季節だという意であろう。

 この桂洲は禅語の研究で知られる学僧で、禅の語録に見える俗語に注解を施した『諸録俗語解』の撰述者の一人である。

※桂洲道倫については、小畠文鼎『続禅林僧宝伝』第一輯巻之中に伝がある。芳澤勝弘編注『諸録俗語解』(禅文化研究所、平成11年)の解説「『諸録俗語解』とその撰者について」参照。また論考に上村観光「桂洲和尚と江村北海」(「禅宗」第213号、大正元年。『禅林文藝史譚』所収、大鐙閣、大正8年。後に復刻版『五山文学全集』所収、昭和48年)、水田紀久「打旧話―雨森芳州と桂洲道倫」(「国語国文」第四七巻第2号、昭和47年。後に『近世日本漢文学史論考』所収。汲古書院、昭和62年)がある。

大典(享保4年[1719]~享和元年[1801])

 『日本詩選』の作者姓名に「僧顕常 字は大典、梅荘と号す。又た蕉中と号す」と。臨済宗の高僧で、安永6年(1777)相国寺百十四世となった。東陽より36歳上。東陽には、七絶「夜、蕉中禅師を訪ふ二首」(『詩鈔』巻七)がある。

  月下敲門數訪偏  月下門をたたしばしば訪ふことおほ
  忘形結分宿因緣  忘形の結分 宿因緣
  葛藤文字閑談話  葛藤の文字 閑談話
  又妨蒲団一夜襌  又た妨ぐ蒲団一夜の禅を
◯月下敲門 推敲の故事で知られる中唐・賈島の「李凝の幽居に題す」詩(『三体詩』巻三)に「僧は敲く月下の門」と。◯訪偏 例えば中唐の劉長卿「病に臥して田九の寄せらるるを喜ぶ」詩(『劉随州集』巻三)に「唯だ君のみ相訪ふことおほし」と。◯忘形 年齢や僧俗の違いを忘れる。『薈瓉録』巻下に「忘形交」の条がある。◯結分 結交。〈分〉は、情誼。◯葛藤文字 ここでは詩文の意であろう。◯蒲団 座禅する時の敷物。

   其二
  襌餘遊戯綵毫文  禅餘の遊戯 綵毫の文
  長老名聲世普聞  長老の名声 世あまねく聞く
  身混京塵心不染  身は京塵に混じるも心は染まらず
  緇衣猶帶故山雲  緇衣はほ故山の雲を帯ぶ
  自注に「名声普聞は、維摩経の語」と。『維摩経』香積仏品に見える。
◯綵毫 五色の筆(六朝梁の江淹が夢の中でこれを晋の郭璞から授かったという)。麗しい文才をいう。◯長老 禅師に対する敬称。◯京塵 西晋・陸機「顧彦先の為に婦に贈る二首」其一(『文選』巻二十四)に「京洛風塵多く、素衣化して緇と為る」と。◯故山雲 盛唐・王維の五律「白髪を嘆ず」詩に「惆悵す故山の雲」と。大典は近江の出である。

 また天明八年に大典が古稀を迎えた際には、七律「梅荘和尚七十寿詞」(『詩鈔』巻四)を贈った。

  龍門一世仰玄關  龍門一世 玄関を仰ぐ
  碩學非唯冠五山  碩学 唯に五山に冠たるのみに非らず
  自有文章驚海内  自ら文章の海内を驚かす有り
  更看書字重人間  更に書字の人間じんかんに重んぜらるるを看る
  金經証得無量壽  金経証し得たり無量の寿
  丹鼎留來不老顏  丹鼎留め来たる不老の顔
  韓客勾當黒衣相  韓客勾当す黒衣の相
  賢勞莫厭攪清閑  賢労厭ふかれ清閑をみだすを
◯玄関 玄妙なる仏教世界の入り口の意を含む。◯龍門 声望ある人物の喩え。◯碩学 大学者。江戸期に学識すぐれた五山の高僧に授けられた称号、五山碩学の意を含む。この称号を授与されると、朝鮮修文職として朝鮮国との外交折衝にあたる任務に就いた。下文の〈韓客〉云々はそのことをいう。六如に「戊戌の冬、相国の蕉中禅師、五山の碩学に任じられ恩を謝して東武に至る」云々と題する詩(『六如庵詩鈔』巻二)がある。◯文章云々 杜甫の七律「賓至る」詩に「豈に文章の海内を驚かす有らんや」と。◯書字云々 その書は元の趙子昂(名は孟頫、号は松雪)の神髄を得たものという。◯金経云々 仏典に『観無量寿経』がある。◯丹鼎 不老不死の丹薬を作る鼎。◯勾当 管轄する、担当する意。◯黒衣 墨染めの衣、僧衣。南朝宋の僧慧琳が政治に参与して「黒衣の宰相」と称せられ(『仏祖通載』巻八)、わが国では南禅寺二百七世の金地院崇伝が徳川家康に仕え、寺社や外交関係の事務を掌り、「黒衣の宰相」といわれた。◯賢労 苦労する意で、古くは『孟子』万章上に見えるが、ここでは御迷惑でしょうが、の意か。

 もっとも、東陽は大典の人物については後の六如の項で取り上げるように、あまり好ましく思っていなかったようだが、その詩学や語学関係の著述はこれを精力的に学んだと思われる。文政7年に刊行された『訳準笑話』は、「初学習文階梯」と銘打つように、巻末に「初学作文須用書冊」として、⑴「文語を講解する者」十三種、⑵「名物称謂を訳解する者」五種、⑶「文を作る法程を示す(者)」八種、⑷「文章を肄習するに便なる者」三種を挙げているが、そのなかに大典の『文語解』5冊(明和9年刊)が⑴に、『学語編』2冊(明和9年刊)が⑵に、『初学文談』1冊(天明4年刊)および『初学文軌』1冊(寛政12年刊)が⑶に、『尺牘式』3冊(安永2年刊)が⑷に採られている。さらに東陽が杜甫の七律に注解を施した文化13年刊の『杜律詳解』は、大典の『杜律発揮』(文化元年刊)を常時参看している。
 その大典が詩人としての技量を高く評価していたのが、次に挙げる六如であった。

※大典については、小畠文鼎『大典禅師』(昭和2年)がある。また末木文美士・堀川貴司『江戸漢詩選第五巻「僧門」』(岩波書店、1996年)参照。

六如(享保19年[1734]~享和元年[1801])

 『日本詩選』の作者姓名に「僧六如 名は慈周」と。『東山寿宴集』『平安風雅』『春荘賞韻』にも見える。天台宗の学僧。東陽より22歳上。安永4年(1775)江戸に下り、天明2年10月、京にもどった六如は永田観鵞・伊藤君嶺・清田公績・巌垣龍渓・太田伯魏・端文仲・佐竹噲々らを会して宴を催した。『六如庵詩鈔』巻四に七律「窮冬十九夜、弊居小集、余西上の後はじめて此の一閑を得、賦して諸友に示す」と題する詩があり、その自注に「此の日会する者、永俊平・伊藤士善・清績・岩孟厚・田伯魏・端文仲・佐貞吉、凡そ七人」と見える。佐貞吉すなわち売酒郎佐竹噲々(元文3年[1739]~寛政二年[1790])を除けば、これまで見てきたように、いずれも東陽と交流のあった人々である。彼らを通して、東陽は六如と相識る機会を得たものと思われる。
 翌3年、顕常(大典)・江村北海および江戸の松村梅岡・伊東藍田・井上金峨の序を冠した『六如菴詩鈔』六巻3冊が上梓された際、東陽もその恵贈に与った。次に挙げる五絶「六如菴詩鈔刻成りおくらる」詩(『詩鈔』巻六)は、その礼状代わりというべき作。

  篇篇總奇想、一句不尋常  篇篇総べて奇想、一句尋常ならず
  淵雅驚天下、僧中有此郎  淵雅天下を驚かす、僧中に此の郎有りと

どの篇も奇抜な着想に溢れ、句作りも尋常一様のものではないと、これを称えている。〈淵雅〉は、深遠で高雅。結句は、北宋・欧陽修が韓埼から契嵩の文章を見せられ、その出来栄えに驚嘆して発した「おもはざりき僧中に此の郎有るか」という語を用いる(宋・恵洪『石門文字禅』の巻二十三、「嘉祐の序」。ちなみに、『石門文字禅』には寛文4年(1664)刊の和刻本がある)。
 また東陽は六如の無著庵で中元の月を賞でたこともあった(『詩鈔』巻七、七絶「中元夜、無著庵にて月を賞す」)。その他、七絶「六如上人に贈る」(「詩鈔」巻七)と題した作に云う、

  松偃玄關晝寂然  松は玄関に偃し昼も寂然たり
  幽尋得得碧雲篇  幽尋得得たり碧雲篇
  淵才雅思詩中佛  淵才雅思 詩中の仏
  打破葛藤文字襌  打破す葛藤文字禅
◯幽尋 奥深い境地を探る意。◯得得 自ら満足し楽しむさま。◯碧雲篇 六朝宋の僧湯休が怨情を詠じた詩を指す。彼の詩に比擬した六朝梁の江淹「雑体詩三十首」其三十(『文選』巻三十一)に「日暮碧雲合し、佳人ことに未だ来たらず」とあるのに拠る。◯淵才雅思 『石門文字禅』巻二十九「雲蓋に代はりて北禅方老を賀する書」に見える。◯葛藤文字禅 ここでは(旧来の陳腐な)詩風の意か。

 こうしてみると、六如とはたんに面識があるどころか、それなりの交遊があったものと思われるが、しかしながら、後年、東陽が六如に言及する際には、かなり手厳しい見方をしているのも事実で、『夜航詩話』巻二には、江戸在住の菊池五山(明和6年[1769]~嘉永2年[1849])が、寛政12年入京のおり皆川淇園の勧めで六如に面会しようとしたものの病気を理由に断られ、それがかなわなかったという話柄(文化4年刊『五山堂詩話』巻一)を取り上げている。

 菊池五山言ふ、六如上人は詩才奇警にして、まことに方外の一敵国なり。然れどもの人と為りを聞くに、矜情作態、面目憎む可しと、故に吾れ之を見るを欲せず。恐らくは十年の情恋、一朝に灰冷せん。かつて皆川筇斎に勧められ、一たび往きて之を候す。門下疾を以て辞す。五山つひに見ざるを以て幸と為すと云ふ。昔、唐の宰相鄭畋のむすめ、羅隠の詩をて諷誦してまず。畋、才を慕ふの意有るかと疑ふ。隠貌寝陋、女、一日簾を隔て之を見る。是れり絶えて其の詩を詠ぜず。五山の六如に於ける、其れれに類するか。然れども此の弊は、独り六如のみならず、おほむね京僧の常態なり。し生きて蕉中和尚を見しめば、其れ必ず酸水三斗をかん。
 六如声伎を好む。故に其の詩、酒婦人を言ふ、一にして足らず。殊に衲子の本色を失す。殆ど俗ととがを同じうす。
◯矜情作態 わざとらしく不自然。清・袁枚『随園詩話』巻九に見える。◯羅隠 この逸話は、『旧五代史』巻十四、羅隠伝および『唐才子伝』巻九、羅隠の条に見える。◯寝陋 容貌のみにくいこと。◯酸水 反吐。

 さらに、人品に難ありとするばかりでなく、宋詩の提唱者として世に喧伝される彼の詩についてもこれを手放しで認めていたわけではないようだ。『詩鈔』巻八に七絶「愚亭遺稿を読む」詩があり、次のように詠じている。

  廼翁詩品本潭潭  迺翁の詩品 と潭潭
  憐爾新奇更出藍  憐れむなんぢが新奇更に出藍
  天假餘年盡才力  天 餘年を仮して才力を尽さしめば
  無人道著六如庵  人の六如庵を道著すること無からん
◯廼翁 乃翁と同じ。◯潭潭 深くて広々としたさま。◯憐 愛する、すばらしいと思う意。◯道著は、言う。俗語的表現。〈著〉は、動詞の後について結果に至ることを示す。

「愚亭の父、北海は、その詩の格調はもとより広々としていたが、愚亭の詩の新しさ奇抜さはそれをはるかに凌駕しており出藍の誉れというべきである。天がもっと長生きさせて才能・能力を出し尽くさせたら、誰も六如庵のことなど言わなくなっただろうに」。
 その自注に「六如倡宋詩以尖新驚人、人以僧中放翁稱之。愚亭卽江村孔均、為北海長子、夙着先鞭、尤擅其妙。六如則瞠若乎其後矣。惜夫以早世不顯焉」(六如は宋詩を倡し尖新を以て人を驚かす、人は僧中の放翁を以て之を称す。愚亭は即ち江村孔均、北海の長子為り、つとに先鞭を着け、もっとも其の妙をほしいままにす。六如は則ち其の後に瞠若たらん矣。惜しいかな、早世を以て顕はれず焉)という。〈瞠若乎其後〉は、後に取りのこされて、すべもなく目を見張るばかり、という意。『荘子』田子方篇に見える。
 愚亭については、『日本詩選』の作者姓名に「江邨秉 字は孔鈞、号は愚亭、江邨綬の次子、夙恵常に異なり、九歳詩を能くし、十二文を能くし、兼ねて書画に巧みなり。其の人為る耿介不群、明和甲寅病卒す」とある。なお、その集『愚亭遺稿』には刊本がなく、その写本が美濃加納の人で龍草廬や北海に学んだ宮田嘯台(延享4年[1747]~天保5年[1834])の蔵書を収めた香園文庫(岐阜県立図書館蔵)に伝わる。
 六如が南宋の陸游(字は務観、号は放翁)に比せられたことは、巌垣龍渓の「葛原詩話の序」にも「人以て鉢盂中の陸務観と為す」と見え、菊池五山もこれをいう。
 また六如と言えば、『葛原詩話』でも知られるが、これは端文仲が校訂繕写しておいたのを書賈が聞きつけ天明七年に刊行されたもので、大典・巌垣龍渓・柴野栗山・端文仲の序が冠せられている。この書に関しても、東陽は取るべきところは取りながらも、一方で、詩話の体をなさず「詩語の摘み食い」と称したがよかろうと痛烈な批判をしている。『夜航餘話』巻上に「六如葛原詩話ハ、奇語ヲ博綜発揮シテ、詩人ノ帳秘ニ備フ。実ハ其集ノ自註ナリ。惜シムラクハ学殖菲浅ニシテ、頗ル粗浅ノ誤アリ」として、幾つかの例を挙げ、「且其書詩話ノ体ニアラス、改テ詩語鈔撮ナト号スヘキナリ」とい
う。ちなみに、現在、池田四郎次郎編の『日本詩話叢書』に収録されている東陽の『葛原詩話糾謬』は、『葛原詩話』に東陽が備忘用に書き入れたのを齋藤拙堂が筆写したものがもとになっており、東陽はこれを世に問い六如の非を鳴らす意識があったかどうかは疑問である。
 それはさておき、東陽がその瑕疵を鋭く批判するのは、先に見た清田儋叟の例もあるごとく、六如ひとりに限られたわけではなく、大典の『文語解』についても疑義を呈した例がある。これは彼が学問をする上で、他人の「応声虫」(いいなり)になることを何よりも嫌った証左であろう。

※六如については、高橋博巳「六如の生涯と詩」(「金城学院論集 国文学編」26、昭和62年)ほか幾つか論考があり、年譜には宗政五十緒「六如庵釈慈周年譜」(『近世の雅文学と文人―日本近世文苑の研究続編』所収、同朋舎出版、平成7年)がある。菊池五山の六如評価をめぐっては、揖斐高『江戸の詩壇ジャーナリズム』(角川叢書、平成13年)の第九章「批判と葛藤」第一節「六如批判の底意」参照。また六如の陸游詩受容を論じたものに中島貴奈「六如と陸游」(長崎大学国語国文学会「国語と教育」第30号、平成17年)がある。


覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(6)
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