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世紀の音楽家バーンスタインが交流した二人の日本人(篠田真貴子)

「篠田真貴子が選ぶすごい洋書!」第9回
Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro” 
by Mari Yoshihara 2019年8月出版

レナード・バーンスタインの名前は、クラシック音楽に疎い私でも知っています。カラヤンと並ぶ、20世紀を代表する指揮者であり作曲家でした。ミュージカル『ウェストサイド・ストーリー』を作曲するなど、クラシック音楽以外のジャンルでも活躍し、1990年に72歳で亡くなっています。

バーンスタインの残した約40万点の膨大な書類は、米国議会図書館に寄贈されました。個人的な書簡も含まれています。例えば、妻フェリシアからの手紙がフォルダー3つ分。バースタインから妻への手紙もフォルダー3つ分。本書の著者は資料の中に、聞いたことのない日本人2名の名前を見つけます。アマノカズコ、フォルダー3つ分。ハシモトクニヒコ、まる2箱分。無名の二人は、バーンスタインにとって、どんな存在だったのでしょうか。

Dearest Lenny”は、二人の日本人がバーンスタインに送った書簡を紐解きながら、バーンスタインと彼らの心の軌跡を描いています。同時に、バーンスタインの音楽的な業績や演奏の解説、その背景にある20世紀の音楽産業の移り変わり、日米を中心に世界の政治経済の変遷とそれがバーンスタインの音楽活動に与えた影響が、つぶさに分析されています。

著者の吉原真里さんは、ハワイ大学のAmerican Studies(アメリカ研究)教授で、学会誌“American Quarterly”の編集長も務める研究者です。また、ヴァン・クライバーン財団が主催するアマチュアのピアノコンクールに2度出場した玄人はだしのピアニストであり、私の大学時代からの友人でもあります。

それでは、二人の日本人を軸に、本書の内容を見ていきましょう。

ファンの域を超えたよき友人であり理解者「カズコ」

一人目の日本人、天野和子(アマノカズコ)さん(旧姓・上野さん)が初めてバーンスタインに手紙を書いたのは、太平洋戦争終結からまだ日の浅い1947年、18歳のときでした。帰国子女で音楽学校に通ったこともあった和子さんは、戦後、音楽や芸術を求めて、占領軍が開設した図書館に通うようになります。
そこで、バーンスタインを偶然知って感激し、ファンレターを書いたのでした。バーンスタインは1943年、25歳で鮮烈なデビューを飾り、指揮者・作曲家の若手ホープとして活躍の場を広げつつあった時期です。

約1年後、なんとバーンスタインから和子さんに返信が届きました。ユダヤ系アメリカ人としてホロコーストを我がことのように感じていたバーンスタインは、日本人に対しても原爆投下や戦災にあった人々として、心を寄せていたようでした。和子さんの手紙を読んで、音楽には国境を越え人々の心をつなぐ力があることを改めて感じたのではないか、と著者は分析しています。

和子さんとバーンスタインの文通はその後も続きます。和子さんは結婚して天野姓となり、子ども二人に恵まれ、土木技師の夫に帯同して国内各地を転勤しながら、バーンスタインの音楽を夫や子どもたちに聞かせ続け、一家をバーンスタインファンに育てました。バーンスタインが1961年に初来日したとき、一家は楽屋に招かれ感激の初対面を果たします。1970年、大阪万博に合わせた2度目の来日では、家族でバーンスタインに夕食へ招かれました。
このように、バーンスタインにとっても天野さんは大切な友人となっていたのです。

天野さんとバーンスタインの交流と対面が実現した背景には、日米のさまざまな政治経済の動きがありました。例えば、第二次大戦後の復興支援と冷戦構造の中で、アメリカ政府は文化外交に力を入れていました。その表れが、天野さんがバーンスタインを初めて知った図書館や1961年のバーンスタイン初来日だったのです。
また経済面では、例えばLPレコードの開発と録音技術の発展によって1950年代にレコード・ビジネスが大きく成長しました。バーンスタインは新技術と積極的に付き合い、レコーディングアーティストとして多くのアルバムを発表。だからこそ、天野さんは家族とともに、バーンスタインの音楽に日常的に親しむことができたのです。
さらに日本では、バーンスタインの初来日(1961年)と2回目(1970年)の9年間で、GDPは4倍、一人当たりGDPは3倍と大きく成長しました。中間層が豊かになり、クラシック音楽を楽しむ層が育ち、全国各地に音楽ホールもできました。とくにバーンスタインと日本の関係では、ソニーが重要な役割を果たすようになります。1961年のバーンスタイン来日には国際政治力学が働いていたとするなら、1970年の来日は日本の音楽市場の成長によって実現した、とも言えます。

さて、1978年、バーンスタインは妻のフェリシアを肺がんで失ってしまいます。バーンスタインは自身がゲイであることをあまり隠さず、妻も結婚初期からそのことを理解していました。それでも二人の愛情は深く、子どもを3人もうけていました。妻を失ったバーンスタインの悲しみは深く、秘書のヘレン・コーツが天野さんに、バーンスタインへの手紙では「がん」「死」といったことに触れないでほしい、と伝えたほどです。
翌1979年、バーンスタインは来日しました。このとき、天野さんの夫はがんで死の床にありました。ホテルのロビーで天野さんはバーンスタインを迎えます。これまでは必ず家族4人揃ってだったのに今回は一人で来た天野さんを見て、バーンスタインは「ご家族は?」と尋ねました。天野さんが状況を話すと、マエストロは人目もはばからず声を上げて泣いたそうです。二人の関係は、音楽家と熱心なファンというだけでなく、ほんとうにお互いの家族を思いやる友人関係へと深まっていきました。

恋人からビジネスパートナーとして彼を支えた「クニヒコ」

バーンスタインは、この1979年の来日時に、橋本邦彦(ハシモトクニヒコ)さんと出会います。2箱分もの手紙や資料が残されていた、もうひとりの日本人です。

橋本さんからの初めての手紙の書き出しをご紹介しましょう。

Dear Lenny, . . . After you left Japan, my mind became vacant, because the one night and afternoon that we had were like a beautiful dream for me. And after the awakening, I noticed that the dream had gone and I was sad to see that it was a dream. But in spite of my lonely heart, the sunset that I looked at from the bus to Tokyo from the airport was the most beautiful and fantastic that I had ever seen.
レニーへ。あなたが日本を発ったあと、僕の頭は空っぽになってしまいました。一緒に過ごした一晩と午後は、僕にとって美しい夢のようだったから。目が覚めて、夢だったと気づき、悲しくなりました。でも、空港から東京に戻るバスから見た夕日は、これまで見たことがないほど素晴らしく美しかった。

とてもロマンチックな出会いだったのですね。橋本さんは、保険会社に勤める若いサラリーマンでした。この出会いは一夜限りとはならず、バーンスタインも橋本さんに心を寄せます。翌年にバーンスタインは橋本さんを滞在先のヨーロッパに呼び寄せ、1週間ほど一緒に過ごしました。バーンスタインと時を重ねる中で、橋本さんの気持ちは単なる恋愛感情から、畏敬の念へと昇華していきました。大量の手紙の内容の変遷から、その様子が読み取れます。

バーンスタインと出会って3年後、橋本さんは会社を辞めて俳優への道を歩み始め、高倍率の選考を突破して劇団四季に入団します。同時に編集プロダクションを立ち上げ、大手出版社の記事制作の仕事を受けるようになりました。
ここで特筆したいのは、こうした人生の大きな転換点で、橋本さんはバーンスタインには事後報告のみ、俳優となってもバーンスタインの名前を出すことは一切なかったことです。バーンスタインへの深い愛情と尊敬の念があればこそ、それを自分の有利に使うことをよしとしなかったように見えます。

1985年、原爆投下40周年にあたり、広島で第1回平和コンサートが開かれ、バーンスタインが指揮することになりました。注目度が高く、政治的にも細やかな対応が求められるイベントです。バーンスタインのマネジメントを取り仕切っていたハリー・クラウトは、広島のプロジェクト準備にあたり、日本代表を橋本さんに任せます。
橋本さんは見事に期待に応え、さまざまな音楽家、放送局、行政、スポンサーなどの複雑な利害関係を調整しつつ、マエストロの音楽性と、若い頃から一貫して大切にしてきた「音楽を通して平和に貢献する」価値観が伝わるコンサートになるよう、準備を進めていきました。結果、広島平和コンサートは大好評でした。橋本さんは、敬愛するマエストロを個人的に支えるだけでなく、仕事でも貢献することができたのです。来日最終日、バーンスタンは橋本さんに色紙をプレゼントしました。

For Kunihiko Hashimoto with eternal love, Lenny

バーンスタインの帰国後、橋本さんは「今回の僕はあまりに忙しく、あなたのことだけを考えていたかったのにそうもいかず、突然お別れの日になってしまった。あなたのいない毎日を過ごす準備ができなかった」と綴り、送っています。恋人として、そして仕事上のパートナーとして、二人の関係は成熟していったのでした。

バーンスタインの最後の来日は1990年夏でした。もともとその時期は中国でコンサートを開く準備が進んでいたのですが、1989年6月に天安門事件が発生し、急遽取りやめになったのです。バーンスタインは、残された人生を若手育成に注ぎたいと希望していました。そこで、中国ツアーの代替案として急遽、世界の若手音楽家を育成する音楽祭を日本で開催しようということになり、会場の選定から突貫工事で準備をすることになったのです。ここでハリー・クラウトは再度、橋本さんに助けを求めました。限られた時間しかない中、橋本さんは綱渡りのような準備をこなしました。
1990年6月、約3週間の国際音楽教育祭「パシフィック・ミュージック・フェスティバル札幌」(PMF)が開催され、大成功をおさめます。PMFは単発のイベントとして企画されたものでしたが、毎年継続することになったほどでした。参加した若手音楽家たちにとってPMFは「バーンスタインには音楽以上に生き方を教わった」「演奏の次元がまったく変わった」など、文字通り人生を変える経験となったのです。

その年の秋、バーンスタインは亡くなりました。

バーンスタインは1985年、スピーチで次のように述べています。

“The Will to Love guides my living from day to day, always has, and always has messed it up to a remarkable degree, and still does. … The Will to Love is exhausting. It causes one to love far too many people, and to love them deeply, with commitment.”
「愛する意志」が日々、私を導いている。おかげで派手に失敗することもある。…「愛する意志」には消耗させられる。あまりに多くの相手を、それぞれに深く真剣に愛してしまうから。

「愛する意志」に導かれたバーンスタインの人生

本書は、天野さん、橋本さんの手紙を中心に構成されていて、バーンスタインがどう返信したのかはほとんど書かれていません。バーンスタインの発言の引用も、決して多くありません。それでも本書を読んでいると、「愛する意志」に導かれたバーンスタインの人柄と人生が、お二人の手紙から生き生きと浮かび上がってきます。

私たちは、家族、友人、仕事相手など、他者との関係の中に生きています。他者との関係の積み重ねこそが人生とも言えるのではないでしょうか。自分が自分の人生をどうふり返るか。それと同じくらい、周りの人たちがその人をどう思い、その人に何を語り、その人とどんな場面を共にしたかも、その人の人生なのです。

天野さんと橋本さんからバーンスタインへの手紙は、お二人の人生であると同時に、バーンスタインの人生でもあったのでした。

執筆者プロフィール:篠田真貴子  Makiko Shinoda
小学校、高校、大学院の計8年をアメリカで過ごす。主な洋書歴は、小学生時代の「大草原の小さな家」シリーズやJudy Blumeの作品、高校では「緋文字」から「怒りの葡萄」まで米文学を一通り。その後はジェフリー・アーチャーなどのミステリーを経て、現在はノンフィクションとビジネス書好き。

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