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AIを使った近況


 毎週月曜にnoteを更新するぞ!と決意して8回目、今週書こうと思っていた内容に対しての下準備が間に合わなかった為、その内容について書くのが来週に延期になり、従ってあと3時間後に仕事に行かないといけないのに一切書く事が決まっていない状況にあります。さっきから部屋の中を檻の中に叩き込まれたゴリラ宜しくドタバタ歩き回り、片隅で土下座の様に蹲り、小刻みに痙攣しながら延々と「サブリナ パッパッパッパラ」と繰返し私は歌い続けています。もうこういう時に口から出てくるフレーズというのは、自分の好きな曲の歌詞というより、その時思い出せるフレーズでしかないのです。
 
 サブリナ、パッパッパッパラ。誇張抜きで本当にいい歌詞だと最近しみじみ感じます。毎週「老いてしまって…」「中年の哀しさは…」とか書いてばかりのこのnoteで今週もこういう事を書くのですが、中年とは本当にアブストラクト(抽象的)な獣であります。いや、真面目に書こう。アリストテレスは「政治学」において社会の中で生きていけない存在を「神」か「獣」であると定義した。人間が年を老い、若者に席を譲る為に社会の辺境へ歩を進める時、その身に感じるのは「ああ、また獣に一歩近付いたな」という諦念である。祭られるか忘れられるかしか処理されようが無い存在に着々と変わりつつあるという、この、凄い気持ち。そうした中年の中には自分を「神」と「獣」のハイブリッド、「もののけ姫」における「シシガミ」や「タタリ神」だと自らを定義し、頼んでもいないのにわざわざ泉の中とかから現れて若者達に尊大にふるまい、鳥貴族とかを奢って人生訓を語る事で永遠に続く尊敬を集めようと目論む輩もいるが、無論実際の彼等彼女等はそんな素晴らしいものでは無い。大体が深夜のゴミ捨て場で残飯を漁っている人面犬、犬とおっさんの良くない所全部盛りしましたみたいな哀しい獣の姿をしている。
 不思議な取り合わせについて思い出したのだが、私が住んでいる家の近くにステーキ屋があって、その店のウリが「ステーキの付け合せが唐揚げ」という、胃もたれに苦しむ惨めな大人達を歯牙にも掛けないミスター味っ子みたいな世界観を誇示しているのだが、私はその在り方に疑問を持つ。あくまでそれらは別々の料理として提供されるべきで、「どっちも肉料理だから」という雑な理由で同じ皿に盛るのって、いや、個人的な意見だが、それは「BIS」と「非常階段」のコラボみたいなもので、どちらも素晴らしいとは思うが何も同時に一緒にやらなくても、単なる対バンの形で良かったのでは?と考えてしまう。「男性のファンと女性のファン、両方ゲットだぜ!」というコンセプトをもってマジンガーZのあしゅら男爵がああいう格好をしてるのでは決して無い訳で、あの人に群がってくるのは好事家だけだろう。そういう意味で件のメニューは「肉料理界のあしゅら男爵」とも呼べる。「ステーキか唐揚げ、どちらか一品で十分」というかりそめの秩序、欺瞞に満ちた平和を破壊するこの革命児を、料理から作品の着想を得る事の多い菊地成孔氏がどう評価するのか気になった(といっても"全米ビーフステーキ・アート連盟"も"スペインの宇宙食"ももう20年以上前だが。月日が流れるのは本当に早い)。既にどこかの媒体でしていたらすみません。
 中年とはつまり「人間界のあしゅら男爵」、そういう、社会と異界に跨るアブストラクトな獣であり、その様な荒んだ心を慰撫してくれる曲もまた、若かりし頃に愛好したわかりやすい歌詞よりは「サブリナ パッパッパッパラ」やGeisha Girlsの「少年」の「ガムバッて…ライライライ」みたいな「つまり何なんだよ」と言いたくなる抽象的な歌詞になる。ガムバッてライライライに感情移入してボロ泣きする様になるのだ。「もう俺は抽象だ!ガムバるしかないんだ!」と思って。それでいて未だに禁断の多数決みたいな世界観に憧れがあるから我ながら本当に気色が悪い。怖い。

禁断の多数決/バニラ・フォグ

 どうやったらこんな感じの生活が送れていたんだろうね。いっっっっさい分かりません。俺が死んだら自分の墓に液晶埋め込んでこのPVを24時間流し続けたいと思います。自分なりのRest in Peaceの解釈です。


 書く事が無い時の強い味方、それはAIです。noteに内蔵されているAIに、最近YouTubeに上がっていたドワーヴズのPVが本当に酷かったので、彼等が一体何を考えているのか聞いてみました。

The Dwarves "We Will Dare" (feat. Madd Lucas)

 The Dwarves/Terrorist of Love

 普通のPVじゃんと思うでしょう。これらのPVは普通なんですよ。他のやつが最悪なんですよ。死体が鍋にブッ込まれてたり大勢の女性がメンバーの内臓喰ったり、昔のやつ(devil's level)も最悪だったし、とにかく曲が良く無かったら絶対に見たくない。なのに"We will dare"とかで見せるエバーグリーンなメロディーとか本当に何考えてるの?臓物撒き散らす行為とフルハウス的な世界観を同居さすなよ!AIさん、なぜドワーヴズは喜々としてこういう悪趣味な映像を作り続けるのですか?教えて下さい!動機は何なんですかマジで?!ボーカルの人って眼鏡かけたらバキバキ童貞の人に似てませんか?

↓以下AIの答え

- ドワーヴズのYouTubeに上げられているPVが最悪な理由については、彼らの制作意図やコンセプトを理解する必要があります。いくつかの視点から考えてみましょう。例えば、彼らは意図的に過激な演出や独特な映像美を追求しているのかもしれません。また、彼らが他のアーティストとは違う表現方法を選んでいる可能性もあります。そのような視点から、彼らのPVには個性やアーティスティックな要素が含まれていることを強調する記事を書くことができます。 

- ドワーヴズのYouTubeに上げられているPVが毎回最悪と感じる理由については、視聴者の反応や評価を調査することができます。彼らのPVについてのコメントや意見を参考にし、なぜ多くの人がそれを最悪と感じるのかを分析しましょう。それに加えて、他のアーティストやバンドのPVと比較して、ドワーヴズのPVが異なる要素や独自性を持っていることを強調することもできます。

 なんの意図も無く死体が鍋で煮込まれるPV撮ってたらもう救いが無いよ。本物だろそれ。凶悪犯罪に手を染めて無い事が奇跡じゃん。なんか、どう答えればいいのかね…
 ただ、ドナルドトランプの支持者がホワイトハウスに押し入った事件があった時、ドワーヴズがツイッターで「ドワーヴズはポリティカルなバンドではない。しかし我々は民主主義と共和制を信じているアメリカ人だ。ドナルドトランプは裁かれるべきだ」みたいな声明を出していて、ああ、数十年に渡って気が狂ってるバンドってやはり芯はまともなんだな、と考えた事は覚えています。ゴア的な錯乱とビバリーヒルズ青春白書みたいなポップとの振れ幅って、根が真人間じゃないと耐えられない気がする、というか適当な事を書くと、アメリカがそもそも狂ったゴア丸出しの暴力に依る他国の侵略から始まっていて、それでいて莫大な消費に依るプレッピー的な幸福をも願っているわけで、だからドワーヴズの態度ってアメリカの戯画としては的を得てるんじゃないですかね。ただ、そういう矛盾は表現という名の元にあるからこそ許されるので、現実では真人間であろうよ、という立ち位置なのではないでしょうか。そうだとしたら、それは正しいと思います。自分がここまでドワーヴズに入れ込んでいる理由の内の大きな一つに"エブリバディーズ・ガール"という曲の歌詞がめちゃくちゃ良い、というのがあるので、聴いた事無い方は是非日本盤のCD買って聴いてみて下さい。"ドワーヴズ・アー・ヤング・アンド・グッド・ルッキング"。本当に最高の歌詞なんで。キリンジの"エイリアンズ"みたいなもんです。俺にとっては。

 まあ、さっき墓に液晶埋め込んで禁断の多数決流すって言ったけど、何かの間違いでドワーヴズの"devil's level"のPVが墓から24時間流れる事になっても、それはそれでいいんじゃないかな。というか、祖母の葬儀の時に何の脈理も無くエアロスミスの"ミス・ア・シング"のオルゴールバージョンが流れた時に、ああこの国は完全にイカれたんだと俺は確信したので、みなさんも俺も好きに生きましょうとしか言いようがない!俺が死んだら"ラブ・イン・アン・エレベーター"をオルゴールバージョンで流してくれ!あの曲はROCKだよ。では、また来週〜。

Aerosmith/Love in an Elevator


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