狐の嫁入りに遭遇した話

運転席の窓を開けたわたしは、つめたくしめった草のにおいを吸いこむ。
母と娘を連れて、宿に戻るつもりだった。山の中を通るはずではなかったし青い標識が見えるたびに確認しながら建物の多く見える国道を走っていたのに、ふと気がつくと青々とした木々に辺りを囲まれている。幸い舗装された道路は小綺麗にしており、まったく車が通らないというわけではないのだろう。前にもうしろにも車はおらず、対向車が走ってくる気配もないけれど。
バックミラーで後部座席を見ると、うとうととする母にもたれかかる娘はよく眠っているようだった。夏が終わるころ2歳になる娘は汗っかきで暑がり。背中にはさんでおいたガーゼを取り替えてあげたい。
「ママぁ」
眠たげな声がわたしを呼んだ。
「はい。おはよう、のどかわいた?」
「ママ、おしっこ」
「ちょっと待ってね」
いつもタイミングの悪いところでそう言うので、トイレを見つけたらすぐに寄っていたのだけれど。最後に寄ったガソリンスタンドでもトイレを済ませたはずだ。ああ、そのあとに母がジュースを買い与えて、あっという間に飲んでしまっていたっけ。
「どうしたの、起きたの」
気づいた母が娘に声をかける。娘はまたおしっこ、と言った。
「この辺に停めてさせちゃったら」
母はそう言ったけれど、わたしは曖昧な返事をして車を走らせた。せめて民家でもあればと淡い期待を抱いていたが、娘がそれまでがまんできるとは思えない。母に従うしかないのは頭ではわかっていた。

ゆるやかなカーブを過ぎたとき、立派な民家がどしんと建っているのが見えたのでわたしは胸を撫で下ろす。すぐに車を停めて娘を降ろした。
竹の茂る山のなか、吸いこむ空気はつめたいというよりもやわらかく冷やんでいて、竹の青いにおいはなんの嫌みもなくわたしのからだにしみこむようだった。8月とは思えないほどの心地良さだ。きもちいい、きれい。まっすぐにそのことばがとけるような空気と色。

竹のなかにどしりと建った大きな家はおとぎ話に出てくる御殿のようだった。きらびやかではない、派手でもない、そこだけまるで数百年昔のまま時間を止めたような感じ。囲む竹も、閉じ込めた空気も、知らないはずなのになつかしく感じてしまう。不思議な家だ。
「ごめんください」
重く見える引き戸をからからと開けながら声をかける。子どものころに住んでいた家の玄関とよく似た音だった。
「開けちゃっていいの」
あとから降りてきた母が言う。
「呼び鈴がないから」
「お留守かしら?」
「いや、靴はたくさんあるのよ。靴というか……」
「草履と、下駄ね」
「ふしぎ」
「ふしぎね。女郎屋さんみたいだわ」
覗きこんだ玄関には男物、女物、子どものもの、たくさんの草履と下駄がきれいに揃えられていた。二十足はあるだろうか。履き物から視線を上げると、うすい藤色の暖簾が廊下を隠していた。長い廊下なのだろうか、じっと目を細めてみたけれど突き当たりが見えない。
「ああ、やっぱりお留守じゃないみたい」

はじめに聞こえたのは三味線の音だった。それから琴の弦を弾く音、女性の歌うかろやかな声、手をたたく音、しあわせそうにわらう声、ぱたぱたと廊下を走るような足音、せわしなくかちゃかちゃ鳴るのは運ぶ食器どうしの当たる音だろうか。
不思議だった。まるで耳をふさいでいた手を離したときのように、まるでなかったものがとたんに現れたかのように、たしかに存在していたはずのあらゆる音がいまのいままでわたしの耳には届いていなかったのだ。
「ママ、おしっこ」
「ごめんください、お尋ねしたいことがあるのですが」
暖簾の奥からきゃあきゃあとはしゃぐ子どもの声がする。藤色のむこうにはいくつもの部屋があるらしく、ぱたぱたと廊下を横切るちいさな足袋が見えた。そこにときどき混じるおとなの足袋。
「あぶないよ、急いでるんだからどいておくれ。お膳をひっくり返しちまうよ」
「やあだ、ひっくり返しておくんなさい。 鯛のおかしらも、おおきなあまい栗も、白酒だって、すこうしでいいからなめてみたい。ねえさまたちはどうせなんにも食べられやせんのでしょう、からっぽのお膳を並べたってばれやしませんよ」
「しかたのない子だね、あっちで遊んでおいで」
「ふふふ、いやですよ。こんなめでたい日に、ひとりぽっちでいるなんて!ああそうだ、お外でお花を摘んでこよう、ねえさまのしろいお顔に似合うようなゆかり色の花を、ここへくる途中に見つけたんですよ」
「外へ出ちゃあいけないよ、雨が降るまでは」
「こわいこわい、お言いつけを忘れちまうところでした」

めでたい、めでたい、こわい、こわい。

あどけない歌声が暖簾のむこうでからころと踊っていた。がちゃり、おそらく膳を揺らした音がとくべつ大きく聞こえたかと思うと、暖簾のすぐむこうでしろい足袋がこちらを向く。合わせた裾は目を刺すような朱色だった。

「ありゃあ、お客さまがまたいらした。どちらのお山からおいでなさりましたか。ひとに化けるのがお上手なこと。もしや位の高いお狐さまで?ようござんした、ほれ、ちいさい子がきましたよう。鞠とお人形を貸しておあげ。うちのひいさまもお喜びになりゃしゃる。自慢するわけじゃありませんが、うちのひいさまはとんでもなくできたひいさまなんですよ。わたしはひいさまがまだ赤ン坊のころからお側におりましてね、そのひいさまの晴れの日を、たくさんのお客さまに祝っていただけるのがねぇ、うれしくてうれしくて。今日ばかりはたとえ人間がこんなところへ迷いこんだとしても、とって食おうだなんて思いやしません。うふふ、やだなあ、おまえさまがそうだなんて申してはおりませんよ。どうぞお入りくださいまし、祝言ははじまったばかりですよ。ご心配なく、お膳はまだまだ……。ああ、雨のにおい。ちょうどよかった。これから若旦那とひいさまが新しいお山を見て回られる、おまえさま方も行列に加わっておくんなさい」

「ママぁ、おしっこ!」

ひやり。
娘から服の裾を引っ張られて、霧のような雨が背中を濡らしていることに気づいたわたしは、ぎゅっと顔をしかめている娘の手を強く握った。
「おしっこ、おわった」
「ええっ」
さあさあと、雨が笹を叩く音がする。雨だ。竹を切り取った空は青い、ああ、天気雨。

母もおなじだった。額を濡らしながら空を見上げている。あ、と思って、わたしはゆっくりと不思議な家に振り返る。そこにはもうなにもなかった。
おとぎ話のような御殿も、引き戸も、草履も、歌も。不思議な空気ももうひとかけらも残っていない。さあさあと降るやさしい雨が青い竹をつつむように湿らせているだけだった。笹をすべる水に、おそるおそる手を伸ばしてみる。きっとこの先に藤色の暖簾があったはずだ。
指ですくった水はぬるかった。
「うそでしょう」
濡れていく娘の額を撫でながら、こんなときでも娘の着替えはまだあっただろうかとわたしは考える。パンツはもう足りなかったかもしれない。だから出かけるときはおむつをつけようと言ったのだ、もしおむつをつけていたなら、わたしたちはこんなものを見ずに済んだのにーー。
ぶわ、と鳥肌が立ち、意識して呼吸をしなければ倒れてしまいそうだった。とにかく煙草が吸いたい、そう思って車に戻ろうとふたりに声をかける。後部座席のドアを開けたまま娘のからだを拭き、新しいズボンを履かせてドアを閉めた。

煙草を取り出したころにちょうど雨がやんだ。セブンスターの甘い煙はゆらゆらと、纏うようにわたしに寄り添う。もうこの山から出られる。なぜだかわたしはそう思った。



平成元年8月、大分県にて。


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