パンスの現実日記 2020.7.30

 冬野梅子さんという方の「普通の人でいいのに!」という短編マンガが、Twitterで話題になっていたので読んでみた。「Twitterで話題になったマンガ」を見かけると、僕の悪いクセで、まずはTwitterの反応から読みたくなる。で上がっていたのが、主人公が自意識過剰かつ性悪で嫌だなあとか、自分を見ているようで辛くなる(けど面白い)といったものだった。そういうコメントがついて更に拡散されるというのもまた、現代における王道の流れではある。で実際読んでみたけれど、別に主人公は性悪でもないと僕は思ったし、作品としてとても好感を持った。主人公は自分がどう見えているか、自分で点検していく作業を延々と続けている。と同時に、周りで起こるあらゆる出来事が自分にどのような影響を与えるかも逐一点検している。それは主人公の自意識が過剰だからというより、生活のあらゆる局面において「○○をするのは~的であり、○○のような評価が下されている」という観念があまりに溢れすぎていて、いやがおうにもそうせざるを得ない状況があるからだろう。言い換えるなら、「過剰にされている」のだ。

 カルチャー的なものをちらつかせながら、登場人物の自意識や虚栄心の悲喜こもごもを描いた物語はここ20年ほど多々あり、それがカルチャー好きな人の痛いところを突いたりするので賞賛されるというところまでセットになっている。基本的に僕はそういうタイプの作品があまり好きではない。結局「こういう奴いるよね~」という嘲笑をもってしか消費されないパターンが多いからだ。この作品もそれら過去にあった物語の延長として語られているようだし、同じように消費されてしまっているのだが、僕はとりあえずそういう記憶をすっ飛ばして、労働を描いた物語として読んだ。インスタグラムにいいねをつけるかどうか考えるのも、マッチングアプリを使うのも、普通に仕事に行くのもすべて、自分がなんらかの評価を得るための労働かもしれないなあなんて最近は考えていたので。

 一見お金を稼ぐタイプの労働とは関係なさそうな趣味や余暇、恋愛などの領域もじつはガチガチに管理されるようになって久しい。もちろん、資本制のなかで行われていたことなので今に始まったわけではないけど、SNSなどがより加速させているといえるだろう。先に書いたように「評価を下す」観念が溢れるようになったからだ。そういえば一昔前には評価経済なんて言葉もあったな。

 いきなりデカい話に持っていくと、よるべなき個人を生み出し、アイデンティティ獲得のための終わりなき無数の試みが生まれては消えるのが近代で、それが資本制のもとで繰り広げられたのが20世紀から現在。僕が「こういう奴いるよね~」的な作品を好きになれないのは、結局その構造のなかで登場人物を戯画化したりなんかして、読者がちょっと高みから見ている構図を作っておしまいにしているから、というのもある。それに比べると、本作品はやたらと慎ましやかで、普通の人の普通の生活を活写していると思う。ラスト、ひょんなタイミングで現実を突破しようとするけど、結局全然できないというのはまあ、リアリズムなのだが、この描写があることに僕は少し安堵したのだった。

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