「リアルタイム」と「タイムラグ」 / コメカ

インターネットは物理的な距離の問題を解消してくれる。ぼくが東京の西の方で書いているこの文章も、ネットを通して世界中様々な場所に届けることができる。現代では、紙に書いた文字やレコードに刻み付けた音楽を時間をかけて運び、距離を超えるための苦労を味わわずとも、受信者さえいれば遠くまで瞬間的に、表現や情報を届けることができる。かつてはラジオやテレビのようなタイプのメディアを管理する人々しか持ち得なかった権限を、コンピュータとネット接続権さえ入手すれば、誰もが手に入れられる状況になったのだ。理屈の上では、自由にネット接続できる環境さえあれば、物理的な距離に捉われず、あらゆる場所で「リアルタイム」的な感覚を共有することができるのが、現在だ。

しかし、こうしてどこにいても「リアルタイム」感覚を共有できるようになったことで、「タイムラグ」というものの価値や意味は人々に忘れられつつある。「リアルタイム」を意識しながら表現したり行動したりすると、その結果やリアクションも「リアルタイム」に与えられることを望んでしまいがちだ。だが例えば、何十年も前に発売された本やレコードに触れ、その表現が産み落とされた時代や状況の「遠さ」に強い感銘を受ける、といった類の経験が、人間には起こり得る。マテリアルが長い距離と時間を超えてようやく届いたとき、その「タイムラグ」そのものが、受け手に強い影響を与えることがある。かつての時代に書かれた文字に目を通し、刻み込まれた音楽を再生することで、私たちは「リアルタイム」に覆われた世界からひととき脱出することができるのだ。

「リアルタイム」の結果やリアクションだけを求め始めると、目に見えてそれが得られない場合、表現したり行動したりするモチベーションそのものがその人間から失われてしまうことが多い。今すぐ結果が出ないのなら何をやっても無意味だ、というような無力感。今この瞬間に結果や利益を生まないものは無駄だ、とにかく今勝ち抜け、勝ち馬に乗り遅れるな、というようなメッセージが、いまの社会には溢れかえっている。「リアルタイム」感覚が全面化することの弊害が、こういう類の抑圧の浸透なのだろうと思う。

「タイムラグ」の価値を再認識することは、そういった状況への処方箋になり得るだろう。手紙を入れたボトルを未来の時代のどこかの誰かに向けて海に流したり、また逆に、流れてきたボトルのなかにある差出人不明の古い手紙を受け取ったり。そういう長い時間のスパンそのものを面白がること。「すぐに結果が出ないことは分かっている、でもやるんだよ」というような敗北主義的な態度をとるのではなく、その「タイムラグ」が生み出す面白さそのものを能動的に味わうこと。自分が表現したり行動したりすることが、遠い未来を生きる誰かに届くかもしれない面白さや、「いま・ここ」とはまったく違う時代や場所を生きた過去の人間の表現や行動が届いてしまい、自分を変えてしまうかもしれない面白さ。古本や中古レコードのようなマテリアルはかつてぼくにそういうことを教えてくれたし、今後の時代にも何かしらの形で、「タイムラグ」のなかで届けられる表現は生まれていくはずだ。このように、遠い過去の人々・遠い未来の人々とともに生きるような感覚を得ることを通して、人間のなかにモチベーションや希望を回復していくことに、自分は興味があるのだ。

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