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題目『くっせつ』

 今宵のTwilloの冒険の題目は『くっせつ』。眼にみえるものや、耳にきこえるもの。。その中のいくつかのものは。実は「屈折」して届いているものなのですよ。。

 「屈折」という言葉ではじめに浮かぶのが、光の「屈折」。光がどういうものの中を通るかによって、眼に映る光の角度が変わる。だから不思議な位置にものがみえたり。。不思議な色にみえたりします。
 自然の世界にも「屈折」によってみえるものはあって。。"虹"や"蜃気楼"や"逃げ水"もそうだし、"幻日"や"幻月"なんてのもあります。。

 その仕組みについては理科の授業みたいになっちゃうので、あまり深掘りしません。。とにかく光が曲がって自分の眼に届くということ。だから"錯覚"といえばそうなんだけど。。いわゆる、"気のせい"の"錯覚"ではない。ほんとうに眼にはそう映っているわけだからね。。

 Twilloに置いてあるバカラのグラス。クリスタルガラスも光が屈折する。。クリスタルってのは透明度と屈折度が普通のガラスとは違うのですよ。
 深夜、巨大都市の街灯の光がTwilloのグラスの中を通り抜けると。。不思議な模様みたいにみえたり、影ができたりするのです。透明なグラスなのに、影ができるって。。光は曲がってどこにすっ飛んでいっちゃたんだろう。ハート型の影ができるグラスもあります。。

 考えてみると、人の眼にみえるものはすべて屈折しているといえるのかも。というのは、眼の中にある水晶体が屈折度を調節して焦点を合わせているんだからね。。
 あっ。理科の授業みたいになるので止めます。。

 光の「屈折」の話ばかりでしたが、音や水の波なんかも「屈折」します。光にしても音にしても水にしても。。"波"というところが"肝"。


 そういえば「屈折」した性格、というのもありましたね。。こちらの意図が、なんだか真っ直ぐには伝わっていかない、素直じゃない、というような性格。
 ワタクシに言わせれば、これも光や音の「屈折」と同じようなものなんじゃないかな。と。。

 先程、「屈折」する光も音も水も"波"というところが"肝"だと説明しましたが。
 人から人へ何か感情なり意思なりを伝える場合(例えば、言葉だったり仕草だったり)それは何かしらの波動、つまり波なわけです。。きっと。

 光の「屈折」の場合、通り抜けるもの(例えばクリスタルなど)によって曲がる。曲がり方も、ものの屈折度によって違う。。

 人の場合もそれと同じ。。何かしらを伝えるときの波動が相手の意識の中を通り抜けるとき、それぞれの意識によって「屈折」するのです。その曲がり方は人しだい。。それぞれ人によって屈折度が違うだけ、そう考えればよろしい。。

 大きく曲がる人もいれば、そうではない人もいる。いずれにしても。。大なり小なり、すべて「屈折」しているのですよ。そういうこと。。それはそれでいいんだ。
 そして、眼では水晶体が屈折度を調節してくれていたように、性格においても屈折度を調節してくれる何かが。ほんとうはあるのではなかろうか。。


 それはもしかしたら、その人の中ではなく。外にあるのかもしれない。。穏やかにさせてくれる音楽とか。優しい風景とか。。

 結構「屈折」しているワタクシも。ぼんやりと。。そんなことを考えてみたのでした。。。
 

 Twilloでのワタクシのいつもの最後のセリフ。。「ワタクシは自分では値段を決めていない。のです。。よ。。。」
 適当なものを「サポート」のところに入れておいていただければ幸いです。。。


いつものTwilloでの最後のセリフ。。 「ワタクシは自分では値段を設定していないのですよ。。。」 適当なものをここに置いていただければ。 幸いです。。。