令制国名称関連

旧国名について

古代、人は狩や採取で暮らし、やがて作物を栽培する生活になると豊かな土壌に人が集まるようになった。
やがて集落(ムラ)は連合し、有力勢力もでてきた。そうしてできた地域には夫々呼び名が付いた。

「フサ(手偏に求)」「毛野」「高志」「三野」「倭」「吉備」「出雲」「筑紫」など。

これらの領域が、最終的に倭の王権(=大王)と同盟なり服属なりをした結果、これら支配領域を統治する単位としての「国」が成立した。
これらの「国」をある程度の単位に揃える必要性もあり、大宝年間に律令が整備された頃には大きな領域、或いは人口を持つ地域を2~4に分割することもあった。
これらは政治的中心「奈良」から見て近い方を「上・前」、遠い方を「下・後」とした。

どうして「上下」「前後」と表記が違うのか? については今のところ定説はない。

この結果生まれたのが「カミツフサ(上フサ(手偏に求))」「カミツケヌ(上毛野)」「越前」「備前」などという国名である。
和銅六年(713年)「制、畿内七道諸国郡郷名着好字」という記録が続日本紀に残っているように、地名を「好い(佳い)字」に変えていくような事が起こった結果
「上フサ(手偏に求)→上総」「上毛野→上野」「三野→美濃」のような、現代につながる地名へと変容していった。

この類例に「近淡海(ちかつあふみ:琵琶湖)」「遠淡海(とおつあふみ:浜名湖)」というのもある。
夫々表記で「淡」は省かれ、よみも「ちかつあふみ」→「あふみ」と変化していった。

新たな国名

一旦は、この大宝律令により「国名」の大枠が成立し、その後はご承知の通り荘園が置かれたり、武士が台頭するなどした結果「国」が人口や生産の一つの単位として機能しなくなった。
しかし、大政奉還の結果、奈良時代以来の再びの中央集権体勢に戻ったことから、広域行政区分の暫定的な再編として「国」が復活し、支配の実態と合わせる意味で「国」の分割・創設が行われた(廃藩置県になるまでの僅か2年)
そうして誕生したのが「羽前・羽後」「陸前・陸中」「渡島・石狩・天塩・日高など北海道の11国」である。

国名と雅称・略称

日本の官職組織は、律令により中国の制度を輸入し、日本の旧態に合わせて修正・融合したものだが、雅称として国司を中国風に言う際(太守)地名も「~州」と称されることがある。
例えば駿河は「駿州」、遠江は「遠州」と言った具合に頭文字を取り「州」呼ぶ例である。
ただし、出雲と出羽の様に頭文字が被る場合は「雲州」「羽州」の様に2文字目を使う。
前後・上下分けされた国は「備州」「総州」とまとめられるが、例外として「上州(上野)」「野州(下野)」の様に分けられる例もある。
例)薩州太守・薩州侯:島津の殿様のことを指す

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