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フーリガンにはリスペクトすべきかけらもないし、フーリガニズムの"歴史"や"伝統"に重みはない

古橋選手がスコットランドのセルティックに移籍し、8月末に早速スコットランド最大のダービーマッチ「オールドファーム」の試合が行われる(厳密には、old firm=「古参の会社」はセルティックとレンジャーズの両クラブそのものを指す)。

そこで、両クラブ間の暴力的ライバル関係が注目を集めている――特に古橋選手に対する人種差別的侮辱があったことでそれが加速した。ここで、ライバル関係の「あるべき姿」について、少し私見を書きたいと思う。

フーリガン浄化の戦い

20世紀後半のサッカー界は、フーリガンの暴力に悩まされた時代だった。1970~1980年代はフーリガンの暴力が頂点に達した時期であり、1985年のヘイゼルの悲劇のような事実上の暴動・殺人事件が発生するほど情勢が悪化し、まともな人間はサッカーに関わらないし興味を持たないというほどの状況であった。日本が長らくクラブワールドカップの会場であったのも、その前身であるインターコンチネンタルカップが1970年代末にファンの暴動で開催不能の状態になり、欧州・南米のどちらかとも遠く(客と施設とスポンサーが確保できる)中立地として日本が選ばれた、という経緯がある。

もはやサッカーが存続不能というほど荒廃したため、1990年代には積極的な浄化運動が行われた。さらに2000年代以降にプレミアリーグの世界販売が成功して価値が上昇し、(それ以前からの立見席廃止等とあわせ)チケット価格が上昇して客の社会階層が上がったことで、治安はやや回復している。しかしそれでも、未だにフーリガン時代の混乱が顔を出すことがある。例えばEURO2016における白昼の暴行事件などはその代表格だろう。

クラブサッカーでも、現在は制裁が行われることから減りつつあるものの、未だに暴力的雰囲気は残っている。ペットボトル投げ込み、黒人選手へのバナナ投げ込みによる差別、発煙筒の投擲にスタジアム外での暴行などは未だ散見される。日本人観光客に対して、相手チームのファンであると分かると襲撃される恐れがあるため、そもそもサッカーファンだとバレないようにしろ、という警告がなされることがあるほどである。

またサッカーの解説で翻訳されることがないので中継を見ているだけの日本人にはわかりにくいが、地域差別など「まだ取り締まられていない攻撃的差別・暴力」に関しては野放しの状態であり、聞くに堪えないチャントが歌われていることも多い。最近セルティックの古橋選手に対してライバルのレンジャーズのサポーターによる「犬食い」チャントの動画がSNSに出回り炎上、歌ったグループは出入り禁止となったが、15年前中村選手がセルティックにいた時代はこれが許容されており横断幕まで出される有様であった。それ以前に、マンチェスター・ユナイテッドで長年活躍したパク・チソン選手に対しては、味方であるはずのマンUサポーターから「犬食い」チャントがなされていたほどであった。

プレーヤーのほうもひどい状態であり、1990年代までイングランドのサッカー選手はトッププロであっても酒乱が当たり前という状態であった。アーセン・ヴェンゲルは、監督業を始めたころから先進的取り組みを行い、日本にいた時代に本格的に栄養学の概念に手を付けそれをアーセナルに持ち込んだことで、プレミアリーグがまともにアスリートらしいプレーヤーを揃えるようになった。

Jリーグが始まったのは1991年のことであり、日本のサッカーファンは欧州サッカー界が最悪だった時代を知らないことのほうが多いだろう。ただ、知識として、欧州サッカー界全体で暴力や八百長がはびこり、「まともな人間はサッカーに興味があることを隠すべき」と言われた時代があったことは知っておいたほうが良い。

基本的にサッカーに関しては欧州は間違いなく日本より進んでおり、酒乱時代のイングランド代表ですら当時の日本代表より強かった。今はヴェンゲルが持ち帰った栄養学の実践でも欧州のほうが日本より上回りつつあり(体脂肪率の管理など)日本が基本的に学ぶ立場であるということは変わらないだろう。しかし、それは欧州の全てを学ぶべきということを意味しない。欧州サッカーにも唾棄すべきものは(数多く)あり、フーリガンの歴史を持たない点など客観的に見て日本のほうが優れている点は、それを守るべきだろう。

歴史は暴力を正当化しない

最近差別の話題があった古橋選手だが、彼の所属するセルティックは再び日本人から注目されており、それに伴いセルティックvsレンジャーズのダービーマッチであるオールドファームに関して現地の詳しい人から注意喚起がなされていた。

このようなコメントに対して、「歴史を知ることは大事」云々と、あたかもこれによる暴力まで歴史あるものとして尊重しようという向きの引用コメントが見られる。私はこれに明確に反対する。

この「歴史」は、そもそも現地でだって問題視されている。今回の古橋選手の件でもこの手の宗派対立は話題に上ったが、「いまだに政治をスポーツに持ち込んでいる。今は21世紀だぞ。そもそも21世紀まで宗教差別が残っていることがおかしい。いつまで前時代的な因習が残っているんだ」等のコメントが見られた。

なお、この手の「政治がサッカーに持ち込まれる」話としては、日本サッカーも実は似た問題を抱えている。お隣韓国サッカーとの関係である。韓国サッカーは特に日韓W杯のころまでは日本に対する敵愾心を隠しておらず、「日本に植民地支配された屈辱をサッカーで晴らす」「韓日戦だけは隠し武器を持ち込んででも勝たなければならない」くらいのことが公然と語られるほどであった。今ではさすがに昔ほどのそれはないが、アジア大会のようなサッカー界では泡沫と言える大会ですら日韓戦ならば最近でも視聴率が50%に達することがある。試合もスポーツマンシップに悖る内容のことがままあり、日韓対決ではACLを含めてラフプレーが多発したり、乱闘騒ぎが起きたりあからさまにおかしなPK判定が連発されたりする。こんなわけもあって、日本のサッカーファンの少なからずが日韓戦を「勝っても負けても後味が悪い」として嫌う傾向にある。

それを踏まえて、海外の例を見直してみよう。街でチームのグッズを身に着けているだけで相手チームのサポから「狩り」の対象となる状態が健全と言えるだろうか?日韓戦だってこんなに荒れたりはしない。どちらがホームであっても街でユニを来たアウェイ客が襲撃されるなんてあからさまな暴力にさらされることはなく、「ピッチの外のほうが危険」なんて状態にはならない。「ちょっとした嫌がらせにあった」という話もないではないが、マイナーな事象だ。欧州や南米レベルの暴力沙汰があれば――日韓戦に置き換えればスタジアム内外で「(差別用語)死ね!」「(差別用語)죽어라!」と罵りあい殴り合うような状況になれば——間違いなくサッカーは社会問題化するだろう。日本人が日韓戦に感じる「政治の臭いがしてちょっと嫌」くらいの感情など比べ物にならないひどさだと言えば、決して憧れたり真似したりするべきではないと理解できるだろう。

歴史がなくても暴力をふるう

グラスゴーのオールドファームでは歴史がよく語られるが、歴史がなくてもフーリガンは暴力をふるう。フランスのル・クラスィクでも観客の乱闘騒ぎはあって制裁で無観客試合が良く発生する。しかし、この対決に歴史的な深みはない。PSGが設立されたのは1970年のことであり、リーグアンの初優勝は1985-86シーズンのことである。安定して上位に入りマルセイユとの間で「ライバル関係」がまともに成立するのは1990年代のことであり、実はJリーグと大差ない歴史しかない。ル・クラスィクという名前も、テレビ局が商業的に対立をあおるためにエル・クラシコから名前を借りてきたもので、本質的にはJリーグのご当地ダービーと大差がないといっても過言ではない。

そもそも論として、フーリガンが急激に勃興したのは1970~1980年代の話で、それ自体がサッカーの伝統であったことはない。20年間の間に急激に過激化し社会問題になったのである。それを「尊重すべき歴史」としてみなすのは私は抵抗がある。フーリガニズムは歴史があって暴れているのではなく、暴れたい奴がサッカーや歴史を理由にして暴れている、くらいに理解したほうがいい。

クラブへの忠誠心は良識より優先するものではない

報道によれば、レンジャーズサポーターの古橋への差別動画は、WatsAppかSnapChatによって自ら共有されたものだそうである。自分が差別者であるという証拠を自信満々に公開する――これはいったいどういうことであろうか。

この背景には、サーポーター社会内で「ライバルクラブへの敵意をより表現したものが偉い」という内部的な評価基準があるからであろう。つまり「クラブへの忠誠心を見せろ」程度のことはサポーター社会ではよく言われることで、例えば個人への追っかけ(個サポ)よりクラブに忠誠を誓うサポーターのほうが偉い、といった価値観はよく見るところだが、これが「ライバルクラブへの敵意をより表現したものが偉い」という価値観に繋がり、暴力や暴言を誘発するというメカニズムである。彼らは悪いと分かっていないからやっているのではなく、敵意と悪意の表現としてやっているのであって、悪いと分かっているからやっているのである。

このあたりの事情は下記のポステコグルー監督のコメントにも表れているだろう。差別問題はよく「教育がないからやってしまうのだ」と言われるが(ユヴェントス女子の差別事件はこの色が強い)、このようなライバルクラブ間での差別事件は「教育を受け悪いとわかっている〈からこそ〉やっている向きがある。

But it’s not about education and people are more than well aware of what’s right and wrong – just be a decent human being and treat people with respect.
これは教育の問題ではない。人間は何が良くて何がダメか分からないほど馬鹿ではない。これはまともな人間かどうか、他人に敬意を持てるかというだけの問題だ。
―― Ange Postecoglou

「閉鎖的なコミュニティ内部の理屈が社会の倫理に反して炎上する」という例は普遍的に見られる。サッカー界の中でもパワハラ事件に関しては「暴力を乗り越えられないやつが悪い」「暴力だが愛があるので許される」「結果的に勝ちにつながったならそれはよいことだ」といった言説が平然と飛び出したりする。

だが、そんなコミュニティの中で許されているからOKなどという理屈は世間一般に通用するものではない、ということは日本でも法律ヒエラルキーの中で明白に定められている。クラブへの忠誠心は社会の良識より優先されることはあり得ない。勝つためなら社会一般の規範で許されていないことをしていいというわけでもない。

ノーサイドの精神に自信を持とう

日本のサッカーの歴史は案外古く、イギリスでもまだ学生スポーツでラグビーとの分化の初期段階だった時代に、日本の大学(当時の高等学校=今の大学の教養課程)にもカレッジスポーツとして入ってきた。日本のサッカー文化は、その時代の特質を多く残す(例えば日本代表のユニフォームの色など)。

そのような文化の一つとして、「ピッチの上ではライバル、ピッチの外では友人」というノーサイドの精神はサッカーに関わるものの「常識」として教育される。このような学生スポーツ的なサッカー文化は、サッカーをフットボールではなく「サッカー」と呼ぶ地域、例えばアメリカやオーストラリアでも共通である。日米豪は男子サッカーより女子サッカーのほうが世界ランクが高いのは、「安全でさわやかなスポーツ」というイメージがサッカーにあり、女子スポーツとして適していると思われているためである。これは好ましいことだろう。

また、このカレッジスポーツとしてのノーサイドの精神の歴史は、20世紀初頭、サッカーが今のFAのルールで始まったころからあるものであり、20世紀後半のフーリガン文化より歴史が古い。より古い歴史を担うものとして自信と誇りをもってこの文化を継承していきたいものである。


ヨーロッパや南米ではサッカーは早くからプロ化し――おそらく「客に文句を言えない」というクラブ側の立場の弱さから観客の横暴を許してしまったという側面がある。特にアルゼンチンでは、観客同士の殺人が起きてアウェイ観戦が完全に禁止され、コパ・リベルタドーレスの開催が不可能になってしまったほどの事態を招いたが、そこにはフーリガン団体が関与しており、クラブ経営陣に浸透して公然とダフ屋行為を行い完全にマフィア・犯罪団体になってしまっている

フーリガンの勢力が強い地域では、もうまともな教育を受けた人はサッカーに興味がない、または興味がないふりをする。自分が直接知る限りでも、50歳以上の大卒のイギリス人にサッカーの話題振っても「え?私は一切興味がないから」とかいうことがザラにあるくらいにはこの手の文化は嫌われていた。

フーリガンはサッカーを衰退させる。間違っても「本場のクルヴァではこういうことをやっているんだぜ」「やってみたいな!」など言っていいものではない。2014年にマリノスのゴール裏で10代の男がバナナを振って人種差別的として処分対象となったが、日本では「黒人選手にバナナを投げつける」等の行動は文脈が全く共有されておらず、大方「海外クラブのことならなんでも格好いいと思った、真似してみたかった」という程度の動機だろう。「深く考えず海外のものを格好いいと思って真似する」というのはいわゆる「中二病」の筆頭にあげられるもので、海外に憧れること自体は知的好奇心が増してきた時期の話なので咎められるようなものではないと思うが、海外のもの中にも現地で批判され鼻つまみ者にされているものがあることを教えるのは大人の義務であろう。

フーリガンのような殴り合いをして、それがストレス解消になる人もいないではないだろうが、それよりはるかに多くの人がストレスをため込むだろう。それよりは、勝っても負けてもさわやかな気分になる試合でストレスを解消するほうが100万倍良い。私はサッカーはそのようなものを目指すべきだと思う。



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