歴史博物館プルゼバルスキーのプレート

カラコル(イシククリ案内)(4)

ニコライ・プルジェヴァリスキー(Nikolay Przhevalsky:1839-88)

ロシア帝国時代の地理学者、東・中央アジア探検家であるプルジェヴァリスキーは、1839年、ロシアのスモレンスクで生まれた。高貴なベラルーシ人家庭の出身で、スモレンスクで教育を受けて卒業後1864年に、ワルシャワの軍事学校で地理の先生となった。彼は軍人としての性格を持ちながら、アジア地域と探検への深い情熱を持っており、幼少期にヨーロッパの探検家リビングストーンの影響を受けていた。


プルジェヴァリスキーのはじめてのアジアへの探検は1867年、ロシア地理学協会によって派遣されたもので、シベリア地方のイルクーツクまで行き、ウスリー川上流を調査した。2年間の探検の日記は『ウスリー地方旅行1867-1869』として刊行された。しかし、当時、彼が一番関心を寄せていたことは、チベットのラサを訪問することだった。


1870ー73年、キャフタからゴビ砂漠を横断して北京に向かい、揚子江(長江)上流を探検し、1872年にはチベットを横切った。1876ー77年、中国のトルキスタン地域から、マルコ・ポーロが13世紀に行って以来、一度もヨーロッパ人が未踏だったロプノール湖を再発見した。1877年9月、ラサへと向かったが、たどり着く事はできなかった。


3回目の探検は1879ー80年、 哈密を経由してツァイダム盆地を通り、ココノール(青海湖)へ。この探検では天山山脈を越えてチベットに入りラサまで260kmの地点まで進んだが、ここでチベット当局によって引き返させられた。


1883ー85年、再度ゴビ砂漠から東天山山脈へ行ってイシククリの西側まで到達した。プルジェバリスキーは様々な旅をし、地理情報を収集すべく探検したが、本当に彼が関心を抱いていたことは、軍事的なことであった。探検には、科学的なことと同時に、当時の帝政ロシアのための政治的任務が課せられたいた。そのため、旅のルートは軍事的な目的に基づいて計画されていた。


彼の5回目の中央アジア紀行は彼の没落をもたらした。チュイ川の水を飲んだ後に、腸チフスにかかり、イシククリ湖半に引き返し、ラサへ到達するという長年の目標を果たせず、カラコルの軍事病院で死去した。帝政ロシアのコロニアリズム、領土拡大の時代に探検したことから、プルジェバリスキーは、旅先の現地人(キルギス人、モンゴル人、チベット人、ウイグル人等)の間ではあまり良くなかった。特に当時のロシア皇帝に中国との戦争を進言したことから中国人による評価はよろしくない。しかし、彼は現地人には親しく振舞ったとも言われており、特に欧州には多くの発見をもたらしたことから、科学者、生物学者、探検家としては、非常に評価されている。


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二瓶直樹 / Naoki Nihei

キルギス在住(2017年1月〜)。シルクロード・中央アジア地域をフィールドワーク中。過去、国際協力機構(JICA)や国連開発計画(UNDP)にて開発途上国の支援事業に従事。海外駐在10年目。

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