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仏教ってなに? 応用編ー2  (阿羅漢ってなに?)

阿羅漢
-自分に関する執着を根絶やしにする道-

 先の基礎編でもご説明致しましたように、釈尊は、自分を脱却する道として、先ずは最初に5人の旧友達に中道、四諦、八正道、五蘊無我(それぞれの意味については基礎編7と8をご参照ください)を実践方法を示しながら説かれました。それは、自分と言うものが本来実体の無い妄想に基づくもので、その実体の無い自分と言う妄想を核として、それが執着する様々なものを身に纏い、がんじがらめに成っている状況を自覚し、あらゆる執着を根こそぎにして最後に自分という妄想そのものをも根こそぎにするという方法でした。そうして、五人の旧友達はやがて全員、阿羅漢になることができたとされています。
 この阿羅漢というのは、釈尊が悟られた12段階に渡る個体(1人の人間)の発生とその継続過程(つまり十二因縁又は十二支縁起のこと:詳しくは基礎編5を参照)をその根本原因までに遡ってあらゆる執着と妄想を根こそぎにすることによって、個体の発生原因を根絶しにし、それによって二度と輪廻のサイクルに戻ってこない状態(涅槃)に達する状態のことです。ただし、肉体が生存している間は肉体を維持するための欲求が残っているため、まだ残存欲求が残っている状態の涅槃ということで、有余涅槃と言われ、肉体が死滅するときにはじめて、もはや完全にあらゆる欲求が根こそぎになり何も残すものがないということで、無余涅槃と言われます。
 この阿羅漢と言うのは、元の意味は「尊敬を受けるに相応しい人」という意味で、漢訳で「応供」とも訳されます。釈尊は完全なる悟りを開いて目覚めた者となり仏陀となったわけですが、釈尊は阿羅漢でもあった訳です。釈尊などの仏の呼び名として仏の十号という様々な呼び名が仏典などでは見られます。(この十号それぞれの詳しい意味などについては後々ご説明いたします)例えば、如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊というのが釈尊の呼び名の正式名称のようなもので、まあ言わば、摂政関白太政大臣みないなもんですが、その中の1つが「応供」でインドの言葉でアルハットで、その発音を漢字で表すと阿羅漢となり、意訳すると「応供」となる訳です。
 このように、仏陀となった釈尊は同時に阿羅漢でもあった訳ですが、では阿羅漢となった人はみんな仏陀となったと言えるのかというと、そうとも言えない様なのです。
 すくなくとも、あらゆる仏典を見ても、釈尊の多くの弟子たちが阿羅漢になったという記述は沢山見られますが、誰一人として仏陀となったという記述はありません。
 一般的には後の大乗仏教が阿羅漢という境地を不当に卑下したとする意見も見られますが、初期の仏典を見ても、釈尊の弟子たちが仏陀と言われたという例は出てこないのと、今日の上座部仏教(伝統的に阿羅漢の境地を最終目標にしていて現在のスリランカやタイなどに伝わるいわゆる南伝仏教)の方々自身が、自分たちは阿羅漢には成れるが、仏陀にはなれないと思っているという現実があることから、極めて早い段階から、阿羅漢と仏陀とは違うという認識があったと思われます。
 そして、苦しんでいる多数の人々や生き物を置き去りにして、自分だけさっさと阿羅漢に成って、輪廻のサイクルから「一抜けた!」とばかりに、おさらばしてしまうのはちょっと薄情なんじゃないですか?と疑問を持った人達がいて、そんなに薄情だから、君たちは仏陀にはなれないんであって、仏陀になるにはもっと他の人々や生き物の為に尽くさないといけないんじゃないですか?と言って、別派を立てた人達が後の大乗仏教へと繋がって行ったようです。


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