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仏教ってなに? 応用編ー8

刹那滅

 先にもご説明致しましたように、釈尊の教えは弟子達よって整理・分類・研究され様々な解釈が生まれその解釈をめぐって大論争が続けられて来ました。
 その中で、大乗仏教が登場する以前からあった刹那滅と言う考え方があります。この刹那と言うのは1秒の75分の1ぐらいの長さ(1/60秒又は1/65秒という説もあります)だとされていますが、刹那滅と言うのは、あらゆるものは、この1/75秒おきに消滅しては、又、因と縁によって次の状態が生じ、また消滅するとされています。
 つまり、あらゆるものは、そのままずっと存在している訳ではなくて、1/75秒おきに点滅しているような状態で微妙に姿を変えながら生滅を繰り返しているという考え方です。だからこそ、絶えず変化している訳で、永遠に変わらない実体など無いと言われている訳です。
 この概念の面白い所は、映画でもビデオでもあらゆる動画と言われるものは、点滅しており、また点滅しないと動画にはならないという事実と極めて似ている所です。映画のフィルムをご覧になれば分かる通り、フィルム上では静止画が映っているだけで、それを1秒間に何コマ単位で流すと動画に成ります。
 また、ビデオであればハイビジョン動画でちょうど1/60秒毎に静止画が入れ替わって動画に見えるようになっています。
 つまり、あらゆるものが1/75秒ごとに点滅していると言うのは、ハイビジョンよりややスムーズな動きになっていると言うことです。しかも、全ては3D画像でそうなっているということです。
 これは、動画の原理的な問題でもあるのですが、今後、いくら技術が進歩しても、点滅させずに動画をつくることは絶対に不可能なのです。何故かと言うと、動画だけでなく、現実に於いても、点滅せずに物が動くことは無いからです。
 実は、この事実は、比較的最近まで、仏教徒以外は誰も気付かなかったことなのです。最初に気づいた人達は、ここでも度々登場した素粒子物理学者です。ちょっと昔の物理学者たちは、地球が太陽の周りを回っているように、原子核の周りを電子がまわっていると思っていました。
 所が、電子のエネルギー計算をすると直ぐにそんなことは不可能であることが分ったのです。もし、電子が原子核の周りを回り続けているとすると、あっと言う間にエネルギーを使い果たして原子核の引力に引っ張られて原子核に激突してしまうことが分ったのです。
 で、結論から言うと、電子は原子核の周りをグルグルと回りつづけている訳ではなくて、ある特定の確率の範囲内に存在する可能性があると言う状態にあるだけで、実際に観測されるまでは、その状態は確定できないということが分りました。つまり、観測されるまでは実在しているとは言えない状態にあると言うことです。また、実際に観測されても位置か運動量かのどちらかしか実在化しないことも分りました。それを、ハイゼンベルグの不確定性原理と言います。
 更に不思議なのは、電子のエネルギー状態の変化も1,2,3とデジタル式に変化することが分かりました。デジタル式と言うのは、よく車についているデジタル時計だと7時59分から8時00分にいきなり変わるので、7時59分の何秒位なのかが分からないと言う難点があります。時計であれば、本当はアナログ時計の針のように7時59分から8時00分まで長針が動き続けてから8時なったと言えますが、電子の場合は、1,2.3の間は全く不連続でとびとびの値を取ると言うことです。
 つまり、1のエネルギー状態にあった電子は2の状態になるまでに、1.1, 1.2, 1.3・・・と連続的にエネルギー状態が増して2に到達するのではなくて、1からいきなり2になるのであります。1から2までの間の状態は一切ありえないと言うことです。
 1と言うエネルギー状態にあった電子が2の状態に遷移する時は、1の状態からいったん消えて、いきなり2の状態でまた現れると言うことが分った訳であります。
 このように、電子などの素粒子は、連続的に存在している訳ではなくて、デジタル的な数値に従って消えたり現れたりを繰り返しているということが分った訳です。
 動画に詳しい人なら分かると思いますが、動画の動きを出来るだけ滑らかにしようとして、1秒間に入れ替わる静止画のコマ数を(fps=フレームパーセカンド)通常は60フレーム位ですが、それを無理やり1万フレーム位にしたら余りの情報量の多さに動画が動かなくなると思います。
 それと同様に、実際の物質も、アナログ的に連続的に存在し続けると言うことは、一つの状態から次の状態に移行するまでの過程が無限の数だけあることになってしまうため、どのような変化も移動も出来ない事になる訳であります。
 つまり、連続的に存在し続けると言うことは、変化の過程においても存在し続ける訳ですから、その過程の数は無限になってしまい、無限の数の過程を経るには無限の時間が掛かるため、実質的に変化できない事になる訳です。
 しかし、実際に、我々が見ているものは絶えず変化しており、移動もしている訳ですから、変化したり、移動したりするには、その変化や移動の過程が無限数にならない様にどこかで変化の過程の数を減らさなければならないわけです。そして、実際に変化の過程の数を減らすにはとびとびの値を取るしかない、つまり、点滅するしかないという事です。
 また、そのように点滅しているものには不変の実体などありえないため、無常・無我なのであります。

 このように、現代物理学が近年になってようやく気づいた変化や移動の本質を、仏教は遥か二千何百年以上も前から常識の様に説いてきたわけです。


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