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仏教ってなに? 応用編ー5−1

無我か?非我か?

 先に、基礎編8の所で無我と非我の微妙ですが本質的な違いについて少しだけ触れましたが、ここでは、その事についてちょっと詳しく見て行きたいと思います。
 釈尊が説かれたのは無我だったのか、非我だったのかと言う問題です。
 釈尊は、インドの言葉でいうと anātman(元の言葉のパーリー語ではanattā)を説かれました。anātman の最初のanは否定を意味する接頭辞なのですが、それがその後にくっついている ātman を否定していることは確かなのですが、その意味が「ātman はない」なのか「ātman ではない」なのかで解釈が大きく変わる事が問題なのです。
 つまり、「ātman なんてものは有りませんよ! 」と言っているのか、「(あなたが思っているものは) ātman ではありませんよ!」と言っているのかがポイントなのです。
 確かに、初期経典では釈尊は五蘊無我(人間を構成している5つの要素)を説かれたように(5つの要素のどれも) ātmanではないと説かれています。つまり、「(あなたが思っているものは) ātmanではありませんよ!」と言われている訳です。
 そうなると、「(あなたが思っているものは)どれも ātman ではありませんよ!」の後に「結局 ātman なんてものはどこにも無いのですよ!」という趣旨が暗に意味されているのか、逆に「否定することでしか表せないのが本当の ātman なのです」と言いたいのかによって、趣旨が大きく変わることになるのです。
 何故なら、一般的に釈尊が否定されたとされるバラモン教のヴェーダの中には『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』というヤージュニャヴァルキヤという哲人の説いたものがあり、その中では「この世界はすべて ātmanそのものである。それは唯一のものであるが、純粋な意味での認識の主体なので、決して対象にはなりえない。つまり、あらゆる言語規定を越えたものである。従って、言語で表されるものは全て ātman ではない。ただひたすらに「非ず、非ず」としか言えないものである。」と言われています。ヤージュニャヴァルキヤと言う人は釈尊より100年~200年前の人だとされていますが、問題は一口にバラモン教やヴェーダと言っても様々な解釈や教えが乱立しており、これが正しいバラモン教です!みたいな確定したようなものは無いのに等しかったと言うことです。
 よく、バラモン教は梵我一如の思想であると言われています。梵我一如とはブラフマンと言う宇宙原理と人間各人にそなわっている ātman(我)という小宇宙原理は本来は同一のものであると言う思想です。
 一般的には釈尊はこのバラモン教の言う ātman(我)を否定されたと言われていますが、実はこのブラフマンの解釈も ātman(我)の解釈も、当のバラモン教の中自体で大きく見解が分かれており、一体どの説が正統派の説なのか容易に判断できるものではなかったと思われます。 バラモン教もその後のヒンドゥー教も一言で言えば、味噌も糞も一緒のような所があり、ヴェーダの権威を否定しないものは全てバラモン教でありヒンドゥー教なので、思想的にも哲学的にも宗教的にも様々な解釈が乱立しているのが実態です。
 また、ヴェーダそのものも、ある意味で味噌も糞も一緒にしたようなものなので、ヴェーダの権威を否定したと言っても、その宗教儀礼の重要性を否定したのか、バラモン階級を頂点とする階級制度を否定したのか、その代表的思想を否定したのかは、極めて不明確なのであります。
 一般的には、釈尊が否定された ātman(我)というものは、永遠不滅の霊魂のようなもので、そのものの実体・本質を意味すると言われています。しかし、もしそれが釈尊の否定された ātman(我)の概念ならば、それはその当時のインド社会で広く信じられていた ātman(我)の概念だったのかもしれませんが、少なくとも『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』に説かれている「純粋な意味での認識の主体で、決して対象にはなりえない、あらゆる言語規定を越えたもので、ひたすらに「非ず、非ず」としか言えないもの」という意味での ātmanの概念と、単純に同じものとは言い難いと言わざるを得ません。
 そうなると、釈尊が否定されたのは、先に述べたような当時のインドの社会では一般的であった永遠不滅の霊魂のような、そのものの不変の実体・本質を意味する ātman(我)であって、ヤージュニャヴァルキヤの説いたウパニシャッドに出てくるような主観と客観の二元化以前の純粋認識主体としての ātman(我)まで否定されたのかどうかは不明であるとしか言いようがないことになります。
 事実、仏教大辞典の編者でもあり日本の仏教学界を代表すると見做されていた故中村元東大名誉教授は、釈尊は仮構された自己や煩悩にまみれた小我のようなものを我であると思いこむことは否定されましたが、純粋認識主体とも言える大我・真我まで否定されたわけではないとされています。
 そうなると、釈尊はいわゆる梵我一如を否定されたわけではないのか?ということになる訳ですが、本当にそうだったのかどうかを検討してみたいと思います。

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