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仏教ってなに? 応用編ー4−2   (悟りの境地は光の境地)

光そのものにも喩えられる如来という境地

 それは、正に先の基礎編10でご説明したとおり「自分と言う視点を設定せずに、どの一点にも留まらない完全なる中道の心境になれれば、光そのもののように時間も空間も無い、あらゆる相対的な視点を超えた境地に到達できるのかもしれません。そういう境地こそが釈尊が到達された境地なのかもしれません。」「釈尊の悟りが、光そのものの状態のように時間も空間もない境地なのであれば、一万年前の光が実は瞬時に届いている光であるように、釈尊の悟りというものも、一万年前でも一万年先にでも瞬時に我々の元に届いているものであり、その気になれば何時でも我々が触れ得るものなのかもしれません。」「釈尊の説かれた中道の境地というものは、あらゆる相対的な視点を超えたものであり、従ってそこには時間も空間も無いが、時間を越えて、全ての仮構された存在と瞬時に触れ合える境地でもあるといえるかも知れません。」
 このように、法蔵菩薩のような真の菩薩行から仏・如来となるものが到達する境地は、正に光そのもののような状態にも喩えられるものと思われますが、奇しくも、阿弥陀仏というのはインドの言葉で「アミターバ=無限の光をもつもの」または「アミターユス=無限の寿命をもつもの」という意味であり、無知の暗闇を遍く照らす光の仏であり、空間と時間の制約を受けない仏であるという意味です。
 また、華厳経に出てくる毘盧遮那仏の、毘盧遮那という言葉も、サンスクリット語のVairocanaの音訳で「遍く照らす光明」という意味です。 そして、Vairocanaの音をとれば毘盧遮那であるし、訳せば「光明遍照」または「大日」となる訳で、従って毘盧遮那も大日も元の言葉は同じVairocanaなのであります。このVairocanaということばは法華経の結経だと言われる佛説觀普賢菩薩行法經の中にも釈尊を形容する言葉として登場しますが、それぞれの経典でのニュアンスには若干の違いがあることには注意を要しますが、いずれも無知の闇を「遍く照らす光明」という意味が元になっていることには変わりありません。
 このように、阿弥陀仏も毘盧遮那仏も久遠実成仏も「遍く照らす光明」という性格をもっており、やはり、如来というものは光そのものに喩えられる存在であるといえるのではないかと思われます。
 このような光のような存在である如来に、どのような姿勢で臨むかによって、信仰姿勢の違いが出てくるのかもしれません。
 そして、最初の話に戻りますが、浄土経典類では、人々が阿弥陀仏の請願を信じて、阿弥陀仏とその世界を念じ続けることが奨励されます。
 そして、そのような信仰形態の究極形として、後の時代の日本において、親鸞による絶対他力という「自分の無力さというものを徹底的に自覚して、ただひたすらに超越者の救いの意志に自らを全面的にお任せする」という信仰姿勢によって最終的には「自分」という妄想自体を忘れてしまうような心境になろうとする信仰形態が登場しますが、これは浄土経典類が本来意図する究極形であったのだと思います。
 一方、同じ如来でも法華経に登場する久遠実成仏に対する信仰姿勢は、自分自身が仏によって救われるということ自体よりも、自分が菩薩として如来から智慧を頂きながら、他の人々とともに菩薩行を全うしようということが意図されているように思われます。
 また、大日経などでは、自分自身が本来大日如来であることを自覚することが目指されていると言えるかもしれません。
 このように、経典の成立年代と経典の趣旨によって、そこから導き出される信仰形態がちがってくるのは当然なのだと思いますが、このあたりの詳しい違いなどについては、今後ここでも取り上げて生きたいと思います。

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