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仏教ってなに? 応用編ー5-2

無我か?非我か?-2

迷いの主体は何か?

 先に述べた故中村元東大名誉教授は「仏陀が否定された我と言うのは、わがものと思い込んだものであり、常住不変の実体であり、常住不変の自己の本質といったものであります。」『非我あるいは無我が、いまひとつはっきりしないのは、あれはアートマンではない、これもアートマンではないと否定的に説かれていて、これがアートマンであると肯定的、断定的に説きあかされないところに、わかりにくい面がありましょう。しかし、ここで、否定的にしか説き得ないことなのであるということを理解しなければなりません。もしこれがアートマン(自己)であると断定したなら、ブッダの説教と違ってしまうのでしょう。ブッダは、これといって具体的に、また対象的に客体化して明示するどんなものもアートマンではないといっています。ブッダはアートマンは存在しないとはいっていません。人間の五種の構成要素(五蘊)をとりあげ、「アートマンはこれでもない、あれでもない」といっているだけです。』

 この中村元博士の解説を読むと、先に見たウパニシャッドのヤージュニャヴァルキヤという哲人の説いた「この世界はすべて ātmanそのものである。それは唯一のものであるが、純粋な意味での認識の主体なので、決して対象にはなりえない。つまり、あらゆる言語規定を越えたものである。従って、言語で表されるものは全て ātman ではない。ただひたすらに「非ず、非ず」としか言えないものである。」と言う説と殆ど変らない事が分かります。

 そして、中村博士は結論として「このように初期仏教に於いてはアートマンを否認していないのみならず、積極的に承認している。」とさえ述べられています。

 このような中村元博士の解釈に対して、仏教学会の学者の中には、中村博士が引用した「スッタニパータ」という初期経典はジャイナ教系の苦行者文学であって、仏教のものでは無いと断言する意見もあって、大きな論争となっているのが現状です。

 では、そのような中村博士の説に批判的な見解からみた、仏教とウパニシャッドのヤージュニャヴァルキヤ説との根本的な違いは何かと言うと、このサイトでの私自身のご説明を例に挙げて解説するのが分かり易いかもしれません。基礎編4の所で、分かり易いたとえ話として、海と波の例をあげました。

 以下そのまま引用します。『それでは、釈尊が悟ったという物事の本質的なありようとはどのようなものだったのでしょうか?釈尊は自分のこころの在り方をじっくり観察するところからスタートしました。自分とは一体誰なのか?何が自分の本質なのか?本当の自分はどんなものなのか?などについて、ずっと観察していると、結局、本当の自分など何処にも居ないことが分りました。あるのはただ「自分」という思いだけでした。自分の存在を根拠づけるものなどどこにもないことが分ったのです。ただただ「自分」という思いというか、思い込みのようなものがあるだけでした。その根拠のない思い込みの様なものが、自分の根底に出来上がっていて、そこから、その自分を守り、維持するための様々な働きが生じていることも分かりました。 その「自分」という思い込みは、自分を他者や他の存在物と区別し、他者との生存競争に打ち勝ってでも、「自分」というものを維持しつづけようとする強い働きを持っていることが分ったのです。それは、あたかも大海原の波の一つがある日突然、「自分」という自意識をもち、その自意識から大海原を眺めてみると、他にも自分と同じような競争相手である波が無数に存在し、それらの波に負けない様にこの「自分」という波を維持し、より強くより大きな波になって生存競争に打ち勝とうしているのと似ていました。

 しかし、本当は海の波も、それぞれが他の波とは別の本質や本体を持っているわけではなく、全ての波は根底では繋がっています。要は思い込みの問題であって、波の一つが、自分を「波である」と思い込むのを止めて、自分は実は海そのものだったのだと気付いた瞬間に、波としての「自分」は消え去り、全世界の大海原そのものと一体となるのです。』

 という例え話でしたが、これは話を非常に分かり易くするための例え話であって、仏教学的には実は大きな誤解を生む要素を含んだ例え話だったのです。本当は海そのものであった波が自分の事を波だと思い込むことによって、自分と他者と言う自他対立の妄想が生じ、その妄想によって苦しみ、その妄想から抜け出して、自分は本当は一つの波ではなくて、海そのもの、つまり大海そのものだったのだと気づいた時が本当の事に目覚めた瞬間であり、迷いから覚めて悟りに到達した状態なのです、と言いましたが、この発想こそが正に梵我一如の発想なのでした。

 つまり、本当の自分と言うのは大海そのもの、つまりブラフマンそのものなのに、その事実に気付かないまま、波と言う本当は自分でないものを自分であると思い込み、その間違った思い込みによって、自他対立と言う幻の世界を見続けることになり、その幻の世界は、本当は自分がブラフマンそのものであるということに気づくまで続くと言う話です。

 この発想こそが、紀元前7世紀~8世紀のヤージュニャヴァルキヤによるウパニシャッドと、その後、バラモン教の中でもその真意がまともに理解されず、全くの誤解まみれの教説が横行していく中で、ようやく8世紀になって、シャンカラと言う人が、実に千数百年ぶりにヤージュニャヴァルキヤ説の正統な後継者として、その説を緻密に説き直したそのものの話なのです。

 このシャンカラの説は、当のバラモン教徒から、シャンカラは「仮面の仏教徒」だと言われたほど、仏教の説そっくりだったのですが、それほどまでに、それまでのバラモン教の中では完全にとんちんかんな説が横行していたとも言えるし、逆に言うと、ヤージュニャヴァルキヤ説そのものが、もともと仏陀の教えにかなり近似していたとも言えるのかもしれません。

 いずれにしても、先の私自身の波と海の例え話のどこが誤解を生みやすいかと言うと、自分という波とそれ以外の多数の波が実は本当は全部海そのものであったという話は、海と言う実体のあるものを前提にしています。

 ところが、このサイトの基礎編5の所でご説明した十二因縁の「無明」から始まる「行」「識」・・・・などは全て実体のないものであり、どのような実体を基にしたものでもありません。つまり、仏教では、全ては妄想そのものであり、その妄想も何か本当に実体のあるものが勘違いしているだけというものではなくて、本来は実在しない妄想が次から次へと新たな妄想を生み出していくと考えるのが仏教の縁起説なのです。

 しかし、仏教も時を経るにつれて、如来蔵とか本来は仏になる可能性を意味するものが、何らかの実体のあるものとして見做されるようになり、だんだんとブラフマンとの違いが不明確になって行きます。

 そして、タントラ仏教の時代になると、そこで説かれる大日如来という概念は限りなくブラフマンに近づいていくというようなことになって行くわけです。

 その辺の事情も、この後見ていきたいと思います。

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