私は、「わたし」として発信をしていきたいはなし

2017年11月にADHDと診断されてから、約1年半。

薬の副作用も落ち着いてきた。

診断がついたとき、安心したという話を聞いたことがあるが、私はそうでなかった。

今も、うまく言えないのだが、自分が短くなく困ってきたことと、「ADHDである」ということが結びつかない部分がある。

一度、診て頂いた先生によって違う診断名がつき、混乱した経験があるので、病院選びは慎重にしたし、専門のドクターに診察をしてもらった。WAIS-Ⅲをはじめいろいろな検査を受けたうえで、診断名がついたので、それに不信感があるわけではない。

「ADHDあるある」みたいなものにも当てはまる。

私は大人も大人、薹が立ちまくって、鶏だったらヒネと呼ばれて出汁くらいにしか使えない年齢で診断がついたからかもしれない。当事者の方に、そういうことはありませんかと聴いて回りたいとも、たまに思う。

だから、「発達障害について」とか「ADHD 」についてとか、思うことがあっても、書けば書くほどまとまりがつかなくて、書き切ったことがない。

でも今回、竹鼻良文さんのnoteを読んで、これを書いてみようと思い立った。

これから書くことは、自分の中で理解できていないことで、もしかしたら「批判」を含むことかもしれない。でも、一個人として私はそうだ、ということなので、誰かをバッシングしたいということではない、と先に言っておく。

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結論から言うと、私はいつでも、主語を「私」としていたい。

これは私の友人の言葉だが、発達障害というのは「オリジナリティ満載の、オーダーメイド障害」だ。

似た傾向はあるけれど、特性には重複も強弱もそれぞれあって、同一ではない。

私は、それを「ADHD だから」こう、「発達障害だから」こう、と自分では言いたくない。事実、それに由来すると思われる困りごとはあるし、「気のせい」と言われるとモヤっとするが、数値化できるわけでもないから、共有が難しいのは分かっている。

本当に、メンタルにかかわる不調というのは、共有のしようがないのが厄介だなと思う。

なぜ、同じような不調を多くの人が感じるのに、血液検査の結果だとか、脳波とか、とにかく数値化できるものがないのだろう。今日は落ち込み指数7だから調子が悪い、と判断できたらきっと、楽になれる人が多くいるのに。

発達障害でない人を「定型」と呼ぶのも、違和感がある。

言うまでもなく人間はひとりひとり、違う。その時その時で分かりやすく人をカテゴライズしたり、ラベリングしたりは、多くの場面で無意識にしている。だからそのことだけ違和感がある、ということ自体わがままになるのかもしれないけれど。

私は、自分に「ADHD」のラベリングをしつつ、他者からは「発達障害の特性を持たない人」と分け隔てなく、接してもらいたいのかもしれない。

「発達だから」とか、「定型だから」と、主語を自分や、向き合っている誰かでなくするのは、いやなのだ。

私は、「私」として、他の一個人である「誰か」と向き合っていたい。

だからこれからも、急に「私」をぽいっと脱ぎ捨てて、「ADHDは」とか、「発達障害は」という目線で、話をしないようにしていきたい。





もしもがあったら、読むことに繋げたいです。