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───そしてパンツにうんこがついた

曰く
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶらしい

それで言えば少なくとも僕は賢者では無い
ケツにうんこくっつけた賢者なんていやしない

だけど「パンツを食い込ませたらうんこがひっつく」なんて、賢者はどこの歴史書で学ぶんだろう

小さい頃はそんな失敗を積み重ねてきた
今と違って間違うことに恐れは無かった

少しだけ怒る母の表情
何も言わない父の背中

失敗した時は、その時にだけ見られる景色があったように思える
幼心ながら僕は親の気を引ける事が嬉しかった、多分ね

大人になるに連れて、少しだけ先を見通せるようになった
成長するに伴って、くだらない間違いやしょうもない失敗が減っていった
失敗した時に見れた景色を、だんだんと見なくなっていく
それはまるで人生が少しずつ整っていくような感覚で、心が凪ぐような感覚を覚えた
安定、平定、安寧、安心とかそんな感じ

だけどそんな毎日にはどこかつまらなさを覚える僕もいた

静かな水鏡には一石を投じたくなる
張りつめた水面には広がる波紋がよく似合う

人は日の出に神聖さを見出す
寝静まる夜を切り開くから太陽の光は美しいのだと

表と裏、渇きと潤い、光と影、

それは枯れ果てた木から芽吹く新芽のように
新たな道へと導くスパイスのように

整理され行く心の隅っこで「なにかが必要だ」と訴えかけるのだ

その刺激がその先を照らす灯台でありオアシスになる
ぼやけた視界のピントを合わせてくれる

ぬるま湯に浸かっていると段々身体の境界線が曖昧になる
水に溶けて世界と同化したような気持ちへ向かう
いつまでもそのままでいたいような
時に落とし穴に吸い込まれるような不安がよぎる

僕は変わらない事を恐れ
変わりゆく事を恐れた

相反する思いは矛盾している訳じゃない
視点の位置で見え方は変わり、また変わらなかったりする
流れに呑まれて流され続けること
流れに逆らいその場に居続けること
どちらも変わり続けて変わらないこと

人は善人にも悪人にもなり続けられないから、そのどちらにも恐れと憧れを抱くんだ

留まるか、動くか
流されるか、堪えるか
いつだって道は分かれてる
数え切れない程の選択肢を浴びてきた
正解を選べた事なんて無い気がする、そもそも正解なんて無い気もする

大切な事は正解を選ぶ事ではなくて
正解がなんなのかを悩む事そのものが大切なんだって思う
悩めば悩む程、その答えは洗練されていくから
洗練された考えと経験から得られる知識

知識は誰にも奪えない財産である

その力が根幹を支える柱になる

そんな思いで僕はケツにパンツを食い込ませた

鉢巻きの如くねじ硬められたパンツが食い込む
尻に食い込むその締まりが、曖昧になった境界に線を引く
そうした選択肢が、また視点をひとつ変えてくれる

だけどパンツにうんこはつかない
同じ失敗は繰り返さない

だから
あの時の思い出が蘇ることはない

砂を撫でる事が叶わないように、風化する記憶を留めてはおけない
僕はもう失敗はしないから

少しずつ薄れゆく思い出に寂しさを覚えた
けれどあえてパンツにうんこをつけようとは思えない
それが失敗しないということ、少し前に進むということ

1歩前に進む度、いつかの足跡は遠くなる
がむしゃらに前に進んでいくけれど、ふいに立ち止まって振り向く時がある
そうして見た時に、自分が歳を重ねるに連れて、親の背中は想像以上に小さくなっていったことがわかる
思い出が少しずつ、両手から零れていくのが当たり前になる

あの日の大きかった父の背中は
走る我が子の小さな背中に上塗りされて

母の呆れたような表情にも
子供たちの笑顔が上に乗っかってくる

人は思い出を場所に宿す
「家族」という僕の居場所は実家ではなくこの家になった
僕も人の親となり、あの日の父の見えなかった表情を想像できるようになった
母の表情に隠れた感情を、理解できるようになった

重なる思い出に芽吹くこれからの人生に
うんこのついたパンツはもう出てこない

そう思っていた
僕は、そう思っていた

子育てはえげつない程の失敗の連続だった
何をするにしても思考のど真ん中を子供が制してくる
今まで両手で処理してた情報を片手間で処理しなきゃいけない
オムツじゃなくてオモチャ持ってってたり、公園にオモチャ忘れたり

くだらない間違いやしょうもない失敗を繰り返した

整いつつあった水鏡に一石を、どころの話じぁない
土砂降りの雨あられでドボンドボンだ
そんな慌ただしい日々を愛おしく感じる

今日もケツにパンツを食い込ませる

ゲラゲラ笑う子ども達のリクエストだ

その後に気がつく、そういやさっきうんこしたな

そして───

子供たちの笑顔の向こうに
父と母の姿が見えた

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