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フルスマ教

宗教って良いものなのよ、本来ね
弱者に寄り添い皆が幸せになる為にある素敵な教え

だけどお金が絡むと途端に悪いものになる、それもとても悪いものに

じゃあ「お金のかからない宗教」があったら皆が幸せになれるんじゃない?

ということで今日からフルスマ教を名乗ります
皆で幸せになりましょう

という事でね、やるんだけどね。簡単に言うとひげちーっていうやつが「フルスマが~幸せが~」って色々言うってものです
その中でなにか新しい気づきが得られるきっかけになれば上出来

「なんだこいつ?んーまぁ言ってる事は間違ってないかなー」くらいの気持ちで見てくれたらいいかな(*´・∀・`*)

身内で既に宗教ハマってる人がいたら紹介してみてね
宗教(金かかる)から
宗教(金かからない)に切り替わったらお得でしょ?

「いや宗教とか胡散臭いやつ僕には関係ないし必要無いわ」って人はそもそも宗教のイメージを履き違えてる
「宗教=なんか悪いもの」っていうのがまるで幼稚なんよ(*´・∀・`

知らないにしても無知の知の意識がだいじ
でもそれは政治と宗教の話はNGとかいう日本人特有の変な考え方のせいで知識が無いだけなのよね

そもそも宗教って普段の生活にすっごい馴染みのあるものだよ

とりあえず誕生日は祝うでしょ?
なんかしてもらえたら感謝する
いただきますとごちそうさまをする

やらなくても生活に支障は無いけどやると心が豊かになる
そういった教えが宗教です
何かひとつを崇め称えて盲信させるのは宗教でなく洗脳
宗教とは幸せに気づくためのきっかけ、教えであり迷い子を導く灯台

僕は他の宗教を否定するつもりは無いです

どんな宗教にも必ず意味があるし、その教えを守ることで幸せになれてる人がいるから

だけどお金を吸い取るのは良くないんじゃない?って思うのよ(*´・∀・`*)
1、お金がかかる
2、自分とこ(の宗教)が絶対的に正しいという教え方
3、視野を狭くさせて自分とこだけを盲信させようとする所

このみっつが気に入らんのよ
でもその他は良いとこいっぱいあるから、良いとこどりするの

フルスマ教の目的は幸せになること
誰でも幸せになれる、その為に他者を不幸にする必要は無い
幸せは資源じゃないから奪うようなものじゃない
遺恨も国も肌の色も関係ないの、個々人が幸せをみつければいいの

そんな訳で行きますよ

「大切な事は考え方」

過ぎ去った事実は変えられない
他人は思い通りには動かせない
努力は必ず報われる訳じゃない

僕たちは多くの不確定要素に目を瞑って生きている
それを忘れると矛盾が生じた時に苦しめられちゃうのよね

命は大切
これは当たり前のように感じるけど、その価値観は誰に植え付けられたものなのか
何故命は大切なのか
何故命を粗末に扱ってはいけないのか
何故命は平等であるべきなのか
その「平等」はどんな定義なのか

「本当に正しい事」は人が決めた枠の中の事でしかない

命は大切って事にしてあるだけ

思ってるより簡単に人は亡くなるし、時に命は軽く扱われる

それが正しいかどうかじゃなくて
世界の中にある社会は、枠組みがなされてその前提条件を土台に論理感や倫理観が乗っかってるだけだってこと(*´・∀・`*)
みんな社会の中に生きている訳だけどそれよりも前に世界の中に生きている

僕達は等しく生まれて等しく亡くなる、寿命という絶対的ルールには誰も逆らえない
社会のルールは人が決めたものだけど世界のルールは最初から決まっているもの
そこには差別も偏見も無い平等なもの
ただ生まれてただ亡くなるだけ

だからその上に社会を築いた

不平等なのは社会のルールのみ

社会のルールには矛盾も過ちもたくさんある
人が決めたルールなんだからそれは仕方ない、社会の中で生きると決めたならある程度は許容する必要がある
そこを忘れると社会の矛盾に相対した時に困った事になる
正誤判定の0100かで考えて自分の首を絞める事になるから

「間違った人生」なんて決して存在しないのね
存在するのは条件を付けた場合のみ
「〇〇を◽︎◽︎した場合のみ間違ってると判定する」って自分で決めたならそれは間違ったって言える

だけど誰かが決めた曖昧な条件を悪い方に解釈して「自分は間違った人生を歩んでしまった」と思い込んでる人が多すぎなんよ

大事なのは考え方

上から見てぐるぐる堂々巡りしてるように見えても、横から見たら螺旋階段を登ってるのかもしれないし
階段を登ってるように見えてもゴールは下にあるのかもしれない
でも実はそのゴールは間違ってるのかもしれない

事実や結果は変えられない

だけど見方や考え方はいつでも変えられるもの
ひとつ視点が変わると過ちは過ちでは無くなる。
かもしれない
悲観的になりすぎる必要は無いんよ
もっと肩の力を抜いて楽観的に行こう
例えばフルスマしてみるとかさ
それくらいでちょうどいいんだよ(*´・∀・`*)

神は「いる」訳じゃない
みんなの心の中にあるもの
フルスマ教は心の中にある神を自認する事から始まる

この世の全ては等しく価値がある。森羅万象のひとつ1つに神が宿っていて、全部に価値がある
それは転じて全部に価値が無いのと同じ
って考え方
全て等しく尊くて全て等しく消えゆくもの
一神教の方がわかりやすいとは思うんだけど多神教的考え方の方が僕は好きだな
日本には八百万の神がいるから
付喪神とかの物を大事にする気持ちが好き
眩しくて輝かしい夢と希望で目を眩ませるもの、というよりは
何故神様って概念が存在するのか、その効果と理由がわかった方が助けになると思うのです

大事なことは現実を直視すること
それは歪んだ色眼鏡を外すこと
大きすぎるのも小さすぎるのも正しく見えてはいない
とりあえず鏡の前でフルスマしよう

フルスマは神ではなく祈りの母体
祈る事で自らの心と向き合って心を育てるもの

神と祈り

例えば「どんな時に神に祈るか」って考えてみると

戦地に大切な人がいる時
災害に見舞われた時
運否天賦の時

だいたいこんな感じの時、うんこ漏れそうな時とかもそうだね(*´・∀・`*)

これら全部に共通してるのが、自分の力ではどうにもならない時ってこと

大きなうねりに対して強烈な無力感に打ちひしがれた時、人は支えになってくれる何かが必要

自分の力ではどうにもならない時
何も出来ないのがわかってる時
人は独りで乗り越えられるほど強くない
心は簡単に弱くなる

だから人は神に祈る事にした
するとどうなるか

「あぁ無力な私には生きる価値が無い」
から
「あぁ無力な私には祈る事しか出来ない」に変わる

更に信心深い人は
「無力な私でも神に祈る事はできる」に変わる

この違い、これだけ変わる
祈るだけで変わる。これはすごいこと
状況はなにも変わってない
変わってないんだけど「死んだ方がいい」くらいの気持ちが「まだやれる事はある、きっと大丈夫」くらいに変わる

心はどんな状況でも救われる
それが宗教の力

支えがあれば人は立ち上がれる、ならその支えを心の中におったてちまえばええやんって考え方
さぁ鏡の前でフルスマしよう、それは小さな第一歩(*´・∀・`*)

「神は心の中にある」=「自らの心との対話」という考え方

すべてを手にするのとすべてを手放すのは似たようなもの

100手に入れた時と100失った時、その差はどちらも同じ100、心にかかる変化は同じ100
起きた出来事に対してその事実をどう受け止めるか、どう思うかで決まる
それは「コップの水理論」が有名だよね
コップの水が半分の時「あと半分しかない」と思うか「まだ半分もある」と思うのか

人は見たいものだけを見る生き物だから、何かあった時に
「自分から見たらこうだけど、ポジティブに見たらこう、ネガティブに見たらこう、事実としてはこう」って形で見れたらそれだけでも違うよね
知るべきものを知った上で見たいものだけ見ればいい、そうして自分だけの世界を構築するんよ

心の中の世界は「内面世界」
現実世界と内面世界

この世には2つの世界がある。宇宙の彼方まで続く現実世界、広くも狭くもなる内面世界
現実世界は説明するまでも無いね、今いる現実の世界、外の世界です
内面世界は心の中の世界、外の世界と同じくらい広大で、どこまでも続く深い深い世界

僕達はみんなこの2つの世界で生きている

現実と内面、この2つの世界は互いに影響し合う
外で雨が降ると内面もしっとりする
内面で雨が降るような気持ちだと外が雨じゃなくとも晴れやかな気分にはなりにくい
お互いに悪い方の世界の影響を受けやすい
防衛本能で危険を記憶しておく習性があるから
嫌な出来事は頭から消えにくいんよ

宗教はそんな内面世界がぐちゃぐちゃになった人を整えるお手伝いをする役割

弱ってる人に必要なものだからだいたいの人にどっかで必要になる、一般教養として教えて良いような気もするんだけどね、まぁ法律違反だからダメなんだけど

宗教の色んな考え方が身につくと、現実が受け入れやすくなって心が弱りにくくなる
生きてれば必ず心がへし折れそうな時が来る
その時に宗教の考え方を知っていたら、少し痛みが和らぐはず
考え方を知るだけでいいから依存までしなくていいと思うんだけどね

宗教関連で問題を起こす人はだいたい宗教に依存してるか、させてる人だけの気がする

内面の世界にも太陽のような存在があると良いんだよね
人生の目標とか指針とはまた別に、いつでも自分を照らしてくれる考え方
肯定でも否定でもなく、自分を締め付けるでも大きく見せるでもなく

ただ闇を照らして自らの輪郭を浮き彫りにしてくれるもの

それが宗教における神様仏様、悟りを開くということ
フルスマ教においての太陽とはそれすなわち(*´・∀・`*)
さぁ鏡の前でフルスマしよう、新しい世界の扉がここにある

内面世界を落ち着かせる為には自分の心と向き合う時間が必要

それは「考える」「思考をめぐらせる」といったこととはまた別物で
どちらかと言うとアスリートが極限まで集中力を高めた状態に近い
「ゾーンに入る」って言うよね
宗教が行う瞑想にはそんな意味合いもある
フルスマを行う事で簡易的瞑想状態に入ることができる
フルスマ教の名前にもなってるフルスマ

フルスマとはすなわちフルパワースマイル、それは全力で顔周りの筋肉を使う事でフルスマに集中させ刹那の間頭の中を全て白紙に戻し、自らを思い直すきっかけとなり隠された感情に気づき闇を晴らして結果幸せになるもの

人は日常生活で全力は出し切らない

残りの使われない所に陰気な影が落ちて心にチリが積もる、倉庫で埋もれてる道具のように
そこでフルスマを行い心を換気させる。それにより毎日の中で笑顔のシーンを増やす事ができポジティブな思考を引き出す事ができる
そしてそれはやがて小さな幸せの種となる
小さな幸せは小さな笑顔から生まれる

その小さな笑顔はやがて大きな幸せへと転化する
笑顔とは人生の栄養そのもの
笑顔のない人生はみるみるうちにやせ細ってしまう
人はみんな幸せを感じる為に生まれてきた
フルスマはその幸せを最も簡単に感じられる、思い出すきっかけになるものなのです
フルスマは忙しい現代人に適応した新たな瞑想のスタイルなんですね
さぁ今すぐ鏡の前でフルスマしよう、もはややらない理由がない(*´・∀・`*)

瞑想を極める事で世界の理を理解する事もできる
だけどそんな真髄をそこらで過ごしてる人に理解できるかと言うとやっぱりできない、僕もそんなのわかんない

気の持ちようだとか、物は考えようって言うけどそれは「言うは易し行うは難し」ってなもんで、人は自分の事を心から信じるのは難しいもの
自分がどれだけ頑張ったとか、どれだけ怠けたとか、自分だけは全てわかってしまうから
あと他人からの評価もやたらと気になってしまうもの

だから心は簡単に暗転するしすぐ曇天が広がる
本来は雄大かつ広大で美しいものなのに、まるで箱に閉じ込められたように窮屈にもなる

生きてると矛盾がいっぱいある。そしてその背後には把握しきれない絡み合った事情がある

各家庭の状況、学習の環境、仕事の環境、目に見えない常識のしがらみ

国の定める憲法だって全然完璧じゃなくて、人生では目を覆いたくなるような納得いかない事がいっぱいある
運が悪かったってだけで近しい人にもう会えなくなった時に、どうしたら納得が出来ようか
そういったやりきれない思いを納得させる為の落とし所として宗教が生まれた

世の中の矛盾のはけ口として、死後の世界で帳尻合わせされてるよ、世界全体で帳尻合わせされてるよ、なんやかんやで帳尻合わせされてんだよって

納得がいかない時は瞑想が出来れば落ち着かせられるけど、何も無い所に祈るのも難しい
浅学者から見たら「虚空に向かっていただきますでもしてるんか?」

って感じになるし、慣れてないと自分でもちょっとそう思っちゃうから

だから宗教の人達は仏像とか神像を作りだした
んで「これは神です、ここに神はいます、ここに毎日祈りなさい。さすれば貴方は救われる、報われる、先祖も子孫もまるごと救われる」とかって言う
宗教の人達もわかってる

これは像だから実際は神ではない
神はこの像に祈った時に貴方の心の中に現れるものだ
ってのはわかってんだけどあえてその説明はしない
宗派によって考え方は違えど根幹は同じはずなのに
あくまで信者の心が救われればいい訳だからそこまで説明してくんないんだよね
それは信者の人を少し見くびってる気がして好きじゃない

だから僕は説明する。幸せを仕組みから
それは事実でもあるし単なる個人の感想でもある、人によっては残酷なものにもなり得る
だけどいつまでもコウノトリさんが赤ん坊を連れてくるなんて信じてらんないでしょ
死ぬまで騙せるならそれで良いじゃん幸せじゃんって考え方より
理解を深めて受け止めるべき傷と気にしすぎの傷を理解して自己解決できるように成長した方が良いじゃんって思う訳ですよ
人は1人では生きていけないけれど、時に独りになってしまうことがある
それは実際に周りに誰も居ない時もあれば、誰も味方がいない時だってある
そんな時に折れないへしょげない心を持つために、鏡の前でフルスマをしよう(*´・∀・`*)

突き詰めると内面世界さえ整ってたらそれでいい
心頭滅却すれば火もまた涼し
それは心を強くする訳じゃなくて、心を育てる
人間的に成長したとか、見聞が広がったとかって言うのも全部内面世界が充実してるってこと
「海外に行って人生観変わった」って言うのも同じ
子どもの頃って家と学校が世界の全てだったと思うんだけれど、それってほとんどの人にとって内面世界は現実世界で見聞きしたもので構築されるからなんだよね
だから外国に行くとその分内面世界が広がるのは当たり前
自分の世界が広がったが故に
以前の自分とは違う不思議な万能感が得られる訳です
事実は小説より奇なり
部屋に引きこもったって生半可な想像じゃ実際の経験には程遠く及ばない
対岸の火事でさえ対岸に渡ってしまえば身内ごとになるように、人は見聞が広い方が良い
百聞は一見にしかずだもんで

なんだけど、これに当てはまるのは

ほとんどの人の生半可な想像
てことは「一部の人」の「生半可じゃない想像」
はどうなるか
これが凄いことに現実の世界の事なんか目もくれず、内面世界をひたすら追求する人っていうのが稀にいるんだよね世の中広いから。
アトリエにずっと篭って作品を作るアーティスト
何十年もひたすら

伝統工芸品を作る人間国宝
修行の果てに悟りを開いた宗教家

こういう人達の内面世界はまぁーー広い
広すぎて深すぎて理解はとても難しい
そりゃそうだよね、それは窓から眺めた景色で世界の形を理解しようとしてるようなもの
無理にも程がある

僕は世界一の称号を持つ人に師事を仰いでいた時期がある

この人がまたすごかった
先生は仙人のような価値観で、とにかく欲が無かった
他人が羨む財産だとか立派な家だとかは持ってないんだけど、そのかわり研鑽を重ねた唯一無二の技術をもっていた
流行り物も知らない、他人の目も気にしない
自分が損をして他人が得をしてもその他人に対して称賛を送るような人だった
僕は1度「先生はなんでそんなに欲がないんですか?」と聞いたことがある
すると先生は
「私には暖かい暖炉と穏やかな音楽、そして家族との時間がある。だからそれ以上は私には必要ない」と答えた
当時の僕は感動した、いや、感動よりも強く衝撃を受けたのを今でも覚えてる

先生の器の底は最後まで見えなかったけれど、ここまで広くて深くて理解できない世界があるのか!ってわかったのが当時の収穫だった
この事からわかったのが「幸せは自分の中にある」という事
僕はそれまで幸せは誰かと比べた時にあると思ってた
人よりかっこいい何かがある
みんなと同じように良い暮らしをする

だけど先生は違った
幸せの基準は自身の中にあって、しかもその水準は限りなく低い(当時の僕には低く思えた)
他人からどう思われようと自分が大切にしてるものを大切にすればいい
研鑽して誰もできない領域の世界は尊敬されるものになる
自分が幸せだと思えたらそれは幸せ

という素晴らしい考え方を持つ人だった

だから「自分が幸せだと思えること」
を大切にしたいと思ったわけだ
それが一番大事なこと

ただ一言で言えばそれまでなんだけど、考えてみると難しい
幸せと思えること、それも他人に依存してないもの、誰かから植え付けられた価値観ではないもの

誰かに否定されても胸を張って答えられるもの

そう考えてくと自分が幸せと思えることって意外と見つからない
ゆっくりと時間をかけて自らの心と向き合ってみなきゃ見えてこないんだって事に気づいた
この世には「幸せっぽいもの」がたくさんある
キラキラ輝く魅力的なものがたくさん転がってる

だけど貴方を心から幸せにしてくれるものはあなたにしかわからない
他人にとっての宝物が自分にとって価値がない場合があるように
貴方にとっての宝物は貴方が自らの心としっかり向き合った末でなきゃ見つけられない

だから、その為に毎日祈りましょう
心と向き合う事は大切

みんな現実世界の事ばかりに重きを置きすぎなんだよね
現実世界ももちろん大事、だけどそれは内面世界を蔑ろにしていい訳じゃない
僕は今まで見てきた経験がある
「何故か涙が止まらない」「心がつらくてたまらない」「どうしても何もする気がおきない」という類の声を
それら全ては

今まで向き合ってこなかった自分の心が悲鳴をあげてるってこと
だけどその事に気づけない、心と向き合うという発想に至らない
心と向き合う事は実は大切なんだよ

心と向き合う為に
毎日寝る時に
頭を空にして「今日は幸せな気分だったかどうか」を考える

答えがYESでもNOでもその理由を深堀りする

それを繰り返す事で自分の心の輪郭が掴めてくる
「繰り返す」ことが大切なこと
人は一度で完璧に理解はできない、むしろ繰り返さないと見えない景色がほとんど
通学路になぜ愛着が湧くのか、初日の通学路と卒業式の通学路は景色がまるで違うように、毎日自分の心と向き合う時間を作る事が大切

そうすると自分の中の大切なものがはっきりとしてくる

その際にフルスマが頭によぎればそれが貴方の神像になります(*´・∀・`*)

という訳で
さぁ今すぐ鏡の前でフルスマしよう(*´・∀・`*)

せっかくだからフルスマの効能を書いておくね
フルスマのやり方は全力でスマイルすればいいよ

1、全力でクワッ!と力込めるからほんとその一瞬だけ頭真っ白になる、それが心地よい
2、どうあがいても全力出す以上馬鹿みたいな顔になるから余計な自尊心を排除できる
3、顔のストレッチになってそれ自体がストレス発散になって笑いやすくなる
4、同じフルスマでも疲れてる時は少し変わる、普段気づかないような細かい体調の変化に気づける
5、ちょっと楽しい

こんな所かな、意外と良いよ是非やってみて(*´・∀・`*)

縛り
肉体に縛られて寿命に縛られ、時間に縛られて生まれた命。
縛りがあるから人は学び幸福を得る。
その事から考えるとやはりこの身体は幸せを

感じる為に借りた一時的なものに過ぎないとわかるのです
人は偉大だとよく勘違いしてる人がいるけど
100年経てば無くなる程度の存在にそこまでの価値は無いよ
あなたも私も誰も彼もが価値がない
だけど誰も彼も尊い命なのです

吐き出す事は大事
人は何かを抱えたまま歩くのは大変なもの

生きてく上で自分の他に「自分のもの」が増えていく
ただでさえ大変なのにそこにストレスまで抱えたらそれはそれはもう大変なこと
だからストレスを抱えない為に瞑想するのも大事だし、どうしても抱えざるを得ないストレスと向き合ってその日のうちに気持ちを解消するのも大事

人はなにかと身体の外に出す事でストレスも一緒に吐き出す事が出来る
紙に書き出す、声を出す、愚痴を吐く、心情を吐露する、歌を歌う、汗をかく、涙を流す、身体を綺麗にする、うんこするのもそうだね
定期的なゴミ出しのようにストレスも外に吐き出してしまいましょう

他人は自分を写す鏡

人は他人を通して自分を見ています
他人が羨ましい時は自分が満たされてない証拠
できる限り他人には「隣人を愛する」気持ちでいられるといいよね

集合的無意識

人の心の中には内面世界が広がってる
その奥深く、深海の光届かない場所のように自分でも知らない深い所には無意識の内に他者との共通認識の世界が広がっている

ギリシャ神話のオルフェウスの冥界下り、日本神話のイザナギの黄泉の国訪問、このふたつが似ている所からも、

人は時代や国境を超えてなお深層心理で繋がってるという事が伺える
それを集合的無意識だとか普遍的無意識という
内面世界で人と人は繋がっているので本当は人は孤独にはなり得ない
個を維持するは我である
自我を捨てた時に人はまた世界に還る
その事を理解すると孤独を感じた時の寂しさが少し和らぐ

ここにあなたが いないのが淋しいのじゃなくて ここにあなたがいないと思うことが淋しい
というのはつまりそういう事

一は全であり全は一
その答えの一端にはこの集合的無意識が関わっている
ということでフルスマしよう(*´・∀・`*)

何故物を大切にするのか

それは心が豊かになるから
内面世界では思い入れが薄いと存在感も薄くなる
思い入れの強い物ほど色濃く大きく存在する
現実世界では物に溢れる雑多な部屋でも、心の中は空虚なもの
100個の雑物より大切な1個の方が遥かに価値が高くなる

大切にしている物には心が込められる
100年大切に使った物は付喪神になると言われているように、心のこもった大切な物は貴方だけの神像になる

何故物を大切にするのか
それは貴方自身を大切にする為

ということでフルスマしよう(*´・∀・`*)

「瞑想は頭空っぽにすることでしょ?空っぽにしたら何も考えらんないじゃん、意味あるの?」
という質問が来ました
とても良い質問です。はい答えましょう(*´・∀・`*)

これは結果だけを求めるが故に足が止まるっちゅーもんですね、よくある事

たしかに瞑想は頭空っぽにする事だけど、

正確に言うと頭空っぽにした先に何が見えるかが重要です
頭の中は常に膨大な情報に溢れてる
それはさながら物に溢れた小部屋のように
物に溢れているという事は沢山のことが見えてないのと同じ
引越しの際に家具を全て退かした部屋は普段とまるで違う景色に見えるでしょう
それと同じで

瞑想によってクリアにした意識の中はそこでしか見えないもの、そこでしか気づけないものが沢山ある
っていう事をおぼろげながら理解できるようになっていきます

何かを見に行く、何かを探しに行くという感覚ではなく
今まで見えていなかったものに気づく、今まで蓋をしていたものを開く

それが瞑想

何らかの技術を習得していく上で、ある日突然「そういう事か!」と理解して壁を突破できる
瞑想にもそんな瞬間が訪れます
ただそれは言葉にしても伝わらない部類のものです
ただそれは人生の助けになるものです

というわけでフルスマしましょう(*´・∀・`*)

毒とコンプレックス

よく毒づく時に「でもこう考えちゃダメなんだけどね」みたいに我に返る人がいる

だけどよくよく良く考えれば毒づく「気持ちそのもの」は悪くなくて、悪いのは誰かの目にとまる所で毒づく事

過激な言葉は素直な感情から来るものだから、それが自分のコンプレックスなんよ

金持ちに嫉妬するのは金無しの自分が許せないから
若者に説教するのは過去の自分が不甲斐ないから

他人はいつだって自分を映す鏡

毒づきたい時は心が素直になってる時
せっかく自分の心と向き合える機会なんだから、自らの心と向き合う為にも臭いものに蓋をしてはいけない

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