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やめてよ。 (小説)

 秋の匂いがするね。
 高い空にある三日月を見ながら呟く直人が疎ましかった。冷たさを帯びた風が、にの腕についている脂肪を更に冷たくした。右手に繋がる彼の左手を握りしめる。大して温度差はないが、肌が触れ合っていると温まっていると勘違いしてしまう。秋の匂いって、なんだろう。直人の嗅覚はそれほど優れていないことを知っている。握った手を振りまわしながら考える。
「わからない?」
 悪戯っぽく笑う直人の上がった口角を見て、眉間に皺が寄る。背中を押して、坂道に転がしてやりたい。憎らしげな視線を感じたのか、喉を鳴らして笑いはじめた。彼の挑発的な態度が、嫌いで、でも大好きだった。
 あ。呟くと同時に立ち止まった直人に、私の右腕がぴんと張る。今日だけは穏やかでいようと思っているのを感じているのか、やけに好戦的な彼に苛立ちが募るのを眉間の皺で感じる。
「これかも、秋の匂い」
 小さな山吹色の花を指差して、楽しそうに笑った。彼の指に触れたのか風に吹かれたのか、金木犀の花が揺れた。いまにも落ちそうなのに、香りを強めただけで凛としている。
 一歩下がって直人の隣に立ち、ゆっくり呼吸をする。さっきまで全然感じなかった秋の匂いを、全身に巡らせた。緊張していたんだな。解放されたと言いたげに、肩が撫らかになる。彼の右手が近づいてきて、咄嗟に払ってしまった。
「ごめんね」
 笑顔を消して彼は言う。遠距離で、そもそもそれがなくても貞操観念の薄い私たちは、互いに浮気をしていた。終着点の決まっている喧嘩を終えて、彼も私も謝罪はしなかった。自分だけが悪いわけじゃなかったからだ。
 不意に言われた謝罪の言葉に、涙腺が緩む。だったらなんで浮気なんかしてんの。そう聞きたかったけど、そのまま自分の傷を抉るだけだからやめた。私が寂しそうなとき、悲しそうなとき、彼はいつも頭を撫でた。昔の雑誌に書いてありそうな女の子が喜ぶ行為を、履き違えたまま覚えていた。撫でられたって嬉しくなかったのに、予測してしまえる程の歳月を共にした事実に瞼を閉じる。奥歯を噛みしめないと泣いてしまう気がした。
 こいつは川端康成かよ。
 心の中だけで詰って、泣きそうになる気持ちを誤魔化した。毎年咲かせてやるもんかと思いながら、そっと右手を手放した。

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