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HAKUNAでの3年間のライブ配信活動を終えて

 ハクナでの最後の配信を終えて、もう3週間が経とうとしています。いまだに辞めた実感があまり湧いていません。配信してないのに、リスナーのみんなと繋がっている感覚があってとても不思議なのですが、みんなはどうでしょうか。「たりくんが辞めたなんて実感ないな〜」「ハクナ開いたら配信やってそう〜」みたいなことを感じてくれている人もいるのでしょうか。さすがに、たりのことを忘れてしまったなんて人はいないですよね?

 振り返ると、毎日のように配信をして、リスナーのみんなとお話して、それを3年間続けていたってすごいよなあ、と他人事のように思う自分がいます。自分でやってきたはずなのに「本当にやったの俺?」と疑ってしまうくらい、ハクナでの配信の日々は現実感がなく、オシャレに言えば夢のような時間だったのかもしれませんね。

 そんな「夢」と思ってしまうくらい、振り返れば非現実的に感じてしまうような3年間の日々を物語のように文章に残したかったのですが、これがまあ、ぜんぜん書けませんでした。書いたといえば書いたのですが、自分でも驚くくらい、みんなにあまり見せたくない醜い気持ちや言い訳みたいなことばっかり書いてしまい、これは人に見せれるものではないなということで止めました。

 そういった醜さや言い訳したいあれこれがあるのは事実ですが、それは本当に本当に些細なことで、当たり前ですが、それ以上に楽しいことや嬉しい気持ちになったことはもうたくさんあるわけでして。きっと、そういったポジティブな気持ちは配信で言い尽くしてしまったから、それ以外の気持ちとなると少しネガティブなものしか残ってなかった、というだけの話な気がします。配信は楽しかったので安心してください。

 そんなこんなで文章を書くのを放置していましたが、やはり何か書きたいなという気持ちは消えず、だったら終わったあとのこの気持ちを書いてみようということで、今、この文章を書いています。

 ハクナの配信を終えて1番大きく感じた変化は「日々が静かになった」ということです。たくさんの人が配信してるハクナを開かなくなって、「人」という刺激に触れる機会が少なくなった気がします。

 アプリを開くと、枠に入らなくたって、顔アイコンだったりのたくさんの「人」の存在が目に入ってきます。イラストアイコンですら僕にとっては「人」でした。そう感じるのはきっと、自分が「そのアイコンの先」に存在していた人間のひとりであったからだと思います。アイコンがずらっと並んでいるその画面に「人」の存在を感じないことは不可能でした。

 アプリを消し、開かなくなったことで、そういった「人」の存在に触れることがなくなり、日々が穏やかに感じるようになりました。ハクナを開くことは、極端に言えば「たくさんの人がいる渋谷や新宿に毎日行く」といった感覚に近かったです。アプリを開けば、どこを見ても、人、人、人。そこから離れた今は、「都会から離れた場所でのんびりしている」という感覚なのです。

 配信の日々から少しずつ変わっていくのを実感しながら、最近は過去の日記だったり、配信についてのメモだったりを見て、配信の日々を思い出したりもしています。日記にはいろんな感情が書いてあって、「あぁ、本当に配信頑張ったんだなあ」と、まるで子どもの成長アルバムを見返して涙するような親の気持ちになったりもしました。親になったことはないのであくまで想像ですが。

 僕が使っていた日記アプリには画像を貼れる機能があります。見返すと、日記にはその日にもらったギフトのスクショがほぼ毎日のように貼られていて、「たくさん応援してもらったなあ」という感謝が、その日記を見ることで改めて湧いてきたりもしました。

 そんなふうにハクナでの色々なことを振り返ったり、整理していたのですが、ひとつだけ、自分の中で驚愕したことがありました。それはハクナをしていた3年間に撮った写真が、ほぼ"ギフトのスクショ"しかなかったということです。

 もちろん、その画像を見て当時の気持ちを思い出して嬉しくなるのも事実ですが、その嬉しさを忘れてしまうくらい大量にハクナ関連の画像だけで埋め尽くされていて、この3年間、ハクナ以外の思い出がまったくないのか…と悲しくなったのも事実。もともとあまり写真を撮らないタイプではあるのですが、にしても、ハクナの画像しかなくて衝撃を受けてしまいました。

 何度も言いますが「こんなにたくさん応援してもらって幸せ!」という気持ちはあるのですが、やはりそれ以上に悲しさのほうが優ってしまい…。この3年間ハクナしか思い出がないのか…という嬉しいような寂しいような、なんとも言えない気持ちになってしまったのです。

 みんなはたりにいつ、どんなギフトを贈ったか覚えていますか? 配信をしていたときにほんのり感じていたのですが、意外とみんな忘れていませんか?

 僕はけっこう覚えているほうかなという自覚があって、当時を思い出すと、配信中に「あの時の〇〇のギフト嬉しかったな〜」と伝えたときに、「え、わたしそれ送ったっけ?」と返されたことがちらほらあったような。恥ずかしくて忘れたふりをしていたのかもしれませんが、そのときに「意外とみんな送ったギフト覚えてない…?」と感じたのを覚えています。中には、ロケットという当時1番大きかったギフトを贈ったことを忘れていた人もいて、それはもう最強すぎますよね。本当に配信というのは「今、この瞬間」の気持ちが詰まった時間で、振り返れば忘れてしまうほどの刹那的瞬間がたくさんあって、でも、それだからこそ配信で過ごす時間というものが「尊い」んだなあ、と思いました。

 なので、みんなから頂いた大切なギフトのスクショは丁寧に削除させていただきました(???)。消すことに罪悪感があったのですが、みんな忘れてるよなあ、とか、刹那的だよなあ、とか、そんなことを考えたら、フォルダに残しておく必要ないよなあ、と最後の配信で頂いたギフトのスクショ以外はほぼ削除させていただきました。すみません。

 と言いつつ、先ほども書きましたが、ハクナの思い出の画像はすべて日記に貼ってあります。なので、いつでもみんなの応援の想いにまた出会えることができます。そのときの気持ちもしっかりと日記に書いてあるので安心してください。写真フォルダにないとしても日記にはあり、極論、日記にないとしても僕の記憶にしっかりと残っています。

 なんか、たりってこういう人間でしたよね。笑顔でギフトのスクショ消しちゃうこの感じ。うんうん。

 こんな感じのたりの代表的なエピソードでいえば、「たくさんの人のメッセージをまとめたオシャレな動画のプレゼントがあんまり嬉しくない」みたいな話を配信で話したことがあるのですが(しかもたりの誕生日のためにこっそり動画を作ってくれているリスナーさんの前で言ってしまうという…)、その話とギフトのスクショに通ずるところってきっと、「気持ちの大きさ」みたいな話だと思うんです。

 僕が実際に配信1年記念日に感じたことです。1年もあれば、色んな人に出会って色んな思い出があって色んな感情を共有して色んな気持ちが生まれます。でもそれが、誰かの主観によってたった何分かの動画にオシャレに編集されてしまったらどうでしょうか。

 「〇〇ちゃんのメッセージはあるのに、△△ちゃんのはなぜないんだろう」「あまり絡みがない人に"おめでとう"言われてもな…」「動画用の感謝のメッセージ書いてない? なんかかっこつけてない?」などと、動画を見た僕はそんなことが気になってしまい、少し悲しい気持ちになってしまいました。それは、オシャレに編集された動画メッセージが嫌いなのではなく、伝えきれないほどの大きな気持ちを抱いた1年間が他者の目線を意識したようなオシャレな動画に編集されてしまったことが悲しかったのです。気持ちが大きすぎるからこそ、僕はそう感じてしまったのです。

 もし、気持ちがあまり大きくなかったら、僕はどう感じていたのでしょうか。

 大学時代、「同じ学部の仲良い人たちが多い」という理由だけでたまに顔を出していたサークルがありました。その最後の活動に誘われたので参加すると、後輩たちが動画メッセージを作ってくれていました。そこには、少しですが僕に向けての動画もありました。すごく嬉しかったし、他の仲間たちに向けられた動画も感動したし、オシャレだなあ、これ作ったのすごいなあ、と感動しました。

 そう感じたのは良くも悪くも「気持ちが大きくなかった」からだと今なら思います。まさかあまり参加していない自分の動画を作ってもらえることなど想像していませんでした。だから、びっくりしたし、感動したし、嬉しかったのだと思います。

 しかし、ハクナは気持ちが大きすぎました。大きすぎたから嬉しい気持ちよりも、悲しい気持ちのほうが勝ってしまったのです。

 だって、写真フォルダがハクナ関連しかないくらい、全力でやってしまったから。毎日毎日必死にやってしまったから。だから、オシャレに編集された動画やギフトのスクショが必要ないほどの、そこには表現できないくらいの大きな気持ちがたくさんたくさんあって、それは動画だったり写真にまとめられるほどの感情ではなく、だから毎日日記を書いていたし、終わった今もこうやって文章書いているのだと思います。

 この大きな気持ちを忘れたくない。ちゃんと言葉にして残したい。これが僕の思い出の残しかたで、そしてみんなへの、ここまでたりを応援してくれたみんなへの感謝の伝え方なのです。

 気持ちが大きくなってしまうくらい、ハクナが大好きでした。配信が好きだったのもきっと、この大きな熱量を直接声で伝えることができたり、リアルタイムでみんなからの大きな気持ちをコメントで、ギフトでたくさんたくさん伝えてもらえたからだと思います。本当に本当にありがとう。

 この前、久しぶりに高校時代の友だちと遊びました。ひとりで旅行にも行きました。ずっとハクナに浸かっていたのもあり、「世界って広いなあ」と感じ、少し嬉しくなりました。これからは写真フォルダにいろいろな思い出を残していけたらいいな、と思っています。

 こう書いてしまうと「ハクナの日々が嫌だった」みたいなニュアンスに受け取られてしまいそうですが、そういうことではなく、むしろハクナで埋もれていたからこそ、友だちと遊んだり旅をすることが尊いと感じるのでありまして。結局、友だちと遊んだり旅する日々に埋もれたらきっと、目標を目指して毎日一生懸命配信していたハクナの日々が恋しくなるんだろうなあと、そんなふうに思います。

 みんなは今、どんな日々を過ごしてますか?

 最後の配信で感動的に終わることができたけれど、何かが感動的に終わっても、そこから感動的な日常が始まるわけではなく、ただ「ハクナで配信をしない」という日常が続いています。みんなもきっと日常から「たりの配信を聴く」ことがなくなっただけで、それぞれに日常を過ごしているのだと想像しています。そんなみんなの日常が穏やかであったらいいな。

 ハクナ、楽しかったなあ。

 ハクナは卒業したけれど、配信を聞いてくれたり、たりを応援してくれたみんなは、いつまで経っても変わることない大切なリスナーさんで、こんな素敵な気持ちを共有できた他にはない存在で、きっとみんなと過ごした日々を土台にこれからも生きていくのだと思います。

 誰かに応援してもらったということ、推してもらったということ、そんな期間が3年間もあったということ。

 配信を辞めて、たりを終わらせて、手の中には何も残っていないような感覚になってしまうこともあるけれど、配信の日々で感じたことはハクナを始める前の僕が持っていなかったもので、この3年間は本当に大きな財産になりました。

 みんなにとっても「たり」がそういう存在であれていたら嬉しいです。「たりの配信を聴いてた」「たりを応援していた」という日々が、これからのみんなの人生のなかで支えとなる瞬間が一瞬でもあればいいなと、心から願っています。

 ここまで読んでくれてありがとうございました。この文章を読んだあなたは多分、けっこうたりのことが好きなんじゃないですか? 違ったらすみません。でも僕はこの文章を読んでくれたあなたが好きです。改めて、本当にありがとう。

 ハクナでの3年間、すごく楽しかったです。楽しかった、という気持ちで終われたこと、それが何よりも幸せです。

 では、またどこかで会いましょう。

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