見出し画像

ジョーカーに共感できない社会の方が恐ろしいと思う

バットマンに登場する悪役ジョーカーが如何にして誕生したかを描いた映画「ジョーカー」が日米同時公開されるや否や、世界中で大ヒットしています。

ジョーカーのスピンオフ映画が公開されると聞いた時、ダークナイトで壮絶な演技をしたヒース・レジャー亡き今、この役を演じられる人などいるのかと思ってしまいましたが、ホアキン・フェニックスが抜擢されたと知った時、ああ、彼なら間違いないと思ったものです。

そして、実際に期待を裏切らない名演を見せてくれました。ストーリーも映像も申し分なし。久しぶりに映画館まで足を運んだ甲斐がありました。強いて粗探しをするなら、挿入されたクリームのWhite Roomが少し合わない気がしたことくらい。

映画を見てから2日後だったでしょうか、出先で普段は見ないテレビを見ていると、ジョーカーを演じたホアキン・フェニックスのインタビューが流れていました。そして、この映画は見るものにジョーカーに共感できるかを問うている的なことを語っておられました。

少しネタバレかもしれませんが(公式ホームページにもこの程度のことは書いてあるので良いでしょう)、不遇な境遇を生きながらも善良そのものだった主人公アーサーがジョーカーとなって悪の道を歩むことになるのは、腐敗する社会と広がる一方の格差の中で彼が切り捨てられていくことによります。

ジョーカーを生んだのは社会に他ならないのです。

ホアキンのインタビューの後、パーソナリティの加藤浩次氏は共感できませんでしたと言い、近藤春菜さんもそれに続きます。そして視聴者にみなさんはどうかと投げかけました。

その境遇がどうあれ、極悪非道な殺人鬼に共感できるとテレビ画面の中で主張することははばかられるのかもしれませんから、それが本心から来る言葉なのかはわかりません。僕の意見としては、この文章のタイトルにある通り、ジョーカーに共感できない社会の方が恐ろしいと思っています。

共感という言葉の定義や、どの要素に対して共感するかにもよりますから一概には言えませんが、別にジョーカーに共感したからといって、殺人はもちろん、犯罪行為を肯定する必要はありませんし、事情が事情なら人を殺したって良いと言っているわけでもありません。人を殺すことで存在の証明や承認欲求を満たすことを是とするわけでもありません。肯定と共感は別であっていいと思います。

僕が主張したいのは、誰かが悪いこと(そもそもの善悪論はここでは語りません)をした時、その行為に及ぼした社会の影響が少なからずあるのではないかということです。

そうであればその行為の責任は本来、行為者だけでなく、社会構造にも問われるべきものです。

それにもかかわらず全ての責任を行為者一人に課してしまうことは、そうさせた社会と、それを構成する僕たち一人一人が責任から逃れていることになりはしないでしょうか?

まさに昨今の自己責任論そのもののようですが、これは誰かを責める立場であれば気楽です。しかし場合によって責められる側になったときは社会の欠陥もろとも背負わなければならなくなります。

そもそも誰だって出自は選べませんし、過酷な環境で生活することを余儀無くされる人はいるでしょう。生まれた国によっては能力と努力次第で這い上がれる可能性(可能性ならいつだってあります、が、という話)もありますが、どんなに足掻いてもどうにもならないケースだってあるでしょう。例えば紛争地帯で生まれてしまった人をあなたは自己責任と言えますでしょうか。災害もそうですが、抗えない事象というものは存在します。

時々悲しくなるような虐待事件がおきます。亡くなった子はもちろん可愛そうですが、親御さんを虐待するに至らせた環境というものがあり、そちらもまた悲しいものではないでしょうか。もしかしたらその遠因が親御さんの幼少期の親子関係にあるかもしれませんし、その調子で負の連鎖が過去へ過去へとつながっているものかもしれません。

僕にとって、ジョーカーに共感できないということは、誰しもが生きて行く上で直面する不条理があって、それによって不遇に追い込まれている存在がいるということに思いを馳せることができないことの表明のように思えてしまうのです。

だからジョーカーに共感できないという言葉が恐ろしいのです。

そんな不条理も含めてあなたのせいだと言われているような感じがします。自己責任で這い上がれと。なんとか這い上がった人は生き延びて、それに失敗した人は没落するような、そんな社会で良いとは僕は思えませんし、そんな社会だからこそジョーカーを生むのだと僕は考えています。

這い上がれない人には手を差し伸べて、なんとか這い上がれそうな人にだって背中を押してやるような社会。いつなんとき大災害が襲ってくるかわからない時代だからこそ大事なポイントなのではないかと思います。

最後まで読んでいただいた皆様に一つ問わせていただきます。

この映画を見てジョーカーに共感することは、物語の主役であるわけですから難しくないでしょう。ジョーカーになるに至る因果関係も克明に描かれておりますし。

しかし現実に起こる事件では、この映画のようにここまで犯罪者の視点で報道されることはなかなかないでしょう。

それでも犯罪者を犯罪に突き動かした原因というのは報道以上のものがあるはずです。例えば、カッとなって殺した、のような話でも、カッとなっただけで殺しに至ってしまうような人となりを生み出した環境の影響というのが必ずあると思うんですね。

そこで問いです。

麻原彰晃や酒鬼薔薇聖斗のようにメディアによって悪の権化として描かれた人たちに、あなたは共感できるでしょうか?

彼らにもジョーカーのようにそうならざるを得ない社会的境遇があるかもしれません。その時、あなたはジョーカーに共感したように(したとして、ですが)共感できるでしょうか?

この問いが、映画ジョーカーが発する問いの、一歩進んだところだと思うのです。

ちなみに僕は共感します。それは、彼らをそうさせるに至ったところに思いを馳せる努力をするということです。それが僕にとってのジョーカーに共感するということだと思っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?