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僕がやすとみ歩を支持する理由

僕がれいわ新選組のやすとみ歩氏を支持するのは、彼ほど本質的な視点で人々の幸せを語った候補者や政治家を僕は知らないから。れいわ新選組のスローガンが「あなたを幸せにしたいんだ」ではあるが、その政策がうまくいったとして、国民生活の向上は期待できたとしても、幸福になれるかというと別の問題だと思う。

幸せを感じるのは、それはあなたが幸せでない時があるからだし、もしくは他に幸せでない境遇の人がいると知っているからだと思う。すなわち不幸があるから幸福がある。不幸か幸福を成り立たせている。だから誰かを幸福にするということは、一方で不幸を存在させないといけないということになる。それはあなたの不幸かもしれないし、他者のそれかもしれない。

それって本当に幸福なのだろうか。まるでドラッグの浮き沈みや、ただの優越感のようではないだろうか。

世界が幸福で満たされてしまって、誰もが常に幸福に満たされているとしたら、もはや幸福の概念なんて存在しないはずだ。幸福が消えてなくなって初めて、僕たちは幸福になれる。鳥のさえずりで目を覚まして微笑するみたいに、幸福とは常にそこにあるもので、求めるものじゃないんじゃないか。

求めるということは満たされてないということだし、何かを得るということは奪うことでもある。そして残念ながら手に入れたとしても、また欲しくなって苦心するのだ。だから本当の幸福とは現状であり、今なんだと思う。いかなる境遇でも幸福になれる。

だからと言って不当に苦境に立たされる必要はない。どんなに差別されても、抑圧された環境にいても幸福にはなれる可能性はあるが、そんなに強い人間ばかりだったら苦労しない。そもそも誰もが安心して暮らす権利がある。

れいわの政策が保障しようとしているのは生存の権利なんだと僕は思う。21世紀にもなってまだそんなサバイバルな話をしないといけないのかと思うと悲しくもなるが、一年に2万人を超える人がこの国では自殺を選んでいるのだから、サバイバルの話をしなければならない。戦争しないのに、戦争レベルで人が死んでいる。

しかし生活保障や景気回復だけでは、生存は守れない。何しろ、富めるものも貧しきものも、不幸であり得るからだ。そうして自死が選ばれる。貧乏人は裕福になりたいし、金持ちはもっと儲けたい。この終わりのないレースを続けたって、幸福にたどり着けることはない。富も名声も、当然GDPも株価も成長率も、幸福なんてもたらしはしない。

しかし政治が語ってきたのGDPや株価や成長率ばかりだ。これでは誰も僕が考える意味での幸せになれるはずがないのだ。すると本当に人々の幸福のための政治というのは未だかつてなかったのかもしれない。

政治によってそのような根源的な幸福に焦点が当てられるなんてことは夢にも思っていなかったが、やすとみ歩氏の常に本質を捉えた議論にはその可能性を感じさせてくれる。なるほど、彼は経済学者でありながら、道教の本まで書いている。

日本人の意識の根底にメスを入れる必要があろうか。彼の本質的な発言は時に人の病める心をえぐるのだろう、ネット上では批判も散見される。いや、そもそも彼の発言の意図を理解できていない人、もしくは理解するのを恐れている人が、彼の批判をしているように見える。何しろ良くも悪くも人々が安住している現行システムを揺るがそうかという発言をするのだから。

だからこそ支持者もまた多い。僕みたいな変なやつだけでなく、今まで政治に動かされなかった、新たな層の心に響いていると僕は見ている。

彼のような政治家が今まで輩出されたことがあるのだろうか。世界的にもいないかもしれない。そんな人が日本の国政を通ったらこんなに面白いことはない。僕は彼のような新しい政治家が必要だと思う。それは人々の幸福が置いてきぼりのまま、政治が運営されてきたと僕には感じられるからだし、本質を外れた政策を積み重ねることは人を幸福から遠ざけることに他ならないのだから。

やすとみ歩氏は全国比例なので、日本のどこからでも投票可能。


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