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(無料にしました)田舎暮らし的ミニマリスト論

※100円の有料記事だったものを無料にしました。書いてから一年経ちましたし良いですよね。これまで買ってくれた人は二人。本当にありがとうございます。逆にいうと、二人しか最後まで読めない記事だったんですよね。こちらとしては内容を伝えたいというのに、読ませないようにしていたという笑。まあ、実験的な有料記事だったんですが、そういうものはフォロワーの多い方に任せましょう。

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物をそぎ落として身軽でコンパクトに生きる、ミニマリストが増えているようです。が、彼らは本当にミニマルなのでしょうか。

必要最小限の物を所有し、ついには家も手放してホテル暮らしを選び、軽快に各地を飛び回ってノマドに生きる人たちが、比較的ミニマルなのは確かです。

基本的に物は資源を食いつぶして供給される以上、所有から離れたところに幸福を見出すことは素晴らしいことですし、いつ巨大な災害が襲ってくるとも限らない時代に突入した今、物を持つことへの根本的な概念を改める必要があるでしょうから、ミニマリストなライフスタイルはもっと浸透すべきと思います。

しかし、そのミニマリズムを成立させるためには、周囲の環境の助けが不可欠です。例えばキッチン用品や食材を買い込まなければ家財はシンプルでミニマルになるでしょうが、それは飲食店に多くを頼ることで成り立ちます。個人としてみればミニマルでしょうが、全体を見れば差ほどのことはないように思えます。

個人と飲食店の双方が鍋を持つよりは、飲食店だけが鍋を持っている方が全体としてもミニマルではあることは確かですが、ここで僕が主張したいのは、そのミニマルな暮らしは、巨大でマキシマムなシステムがあって成り立っているのだということです。

もちろん公共交通網のようなマキシマムなシステムによって例えば自家用車のような個人消費を大幅に抑えることができるわけですから、それは社会的なミニマルさに大きく貢献しています。

そう考えると、ミニマリストとは生活環境のマキシマムさを最大限かつ効果的に利用できている人を指すとも言えるでしょう。インフラとして整備されているならば、同じ機能を持つものをわざわざ自分で所有しなくても良いです。

そのマキシマムな世界だからこそ、コンパクトでミニマルに削ぎ落としていけるのです。

テクノロジーの発展がミニマルライフに与えた恩恵も言わずもがなです。スマートフォンやノートパソコンに入っている機能の全てを持ち歩いたら、写真と手紙だけでとてつもない量になります。

それが小さく収まっているスマホを持ち歩くことは、ミニマルではありますが、限りなくマキシマムでもあります。衣食住の他にはスマホさえあれば大抵のことはできるくらいです。

そこで「ミニ」ってなんだというところをもう少し掘り下げて見たいのです。ただ、小さくてコンパクトなだけがミニマルなのだろうかと。その背景にある巨大なシステムや、環境へのインパクトなどを考慮に入れることなければ、表面的なミニマルしか見えてこないと思うのです。

その点を考察するにあたり、僕のように中山間地域の田舎のしかも山の中に住むような人間の視点が役に立つのではないかと考えます。

利便性溢れるシステムの中の都会的なミニマルさに対して、田舎目線で語れるミニマリズムがあるはずです。なにせ、社会インフラとしては都会より圧倒的にミニマルなのが田舎ですから。

そんな俯瞰的視座にたってミニマリズムを考えてみようと思います。

田舎だからこその自活型ミニマリズム

田舎暮らしのミニマルたる所以は、やはり自分たちでやらなければならない範囲が広いということがあると思います。

行政ばかり頼ってられないというか、頼っていては生きていけない。行政側も人々を構いきれないのが本音でしょうから、良くも悪くもことさらに自助共助が強調され、しかるべきサービスさえ整っていないと思える現実があります。

結果、否応なしに自分の身は自分で守り、なんでも自分で解決するような精神が宿りますから、広い分野に精通することになり、百姓として、文字通り百の名前、すなわち百の能力を携えて生き抜いてきた歴史があります。

家庭菜園を作って食料をまかなうことは普通ですし、家の不具合はよっぽどのことがない限りは自分たちで直します。現在は全国的に放置されていますが、森の管理だって個々人によって当たり前に行われてきました。

行政やプロフェッショナルなどの外からの助けをできるだけ削ぎ落とした暮らしだって、一つのミニマリズムと言えるでしょう。

ミニマリズムに潜む盲点

ミニマリズムを語るとき、忘れてはいけないのは俯瞰的で巨視的な視点です。

例えば先に挙げたように、家庭菜園を作って、野菜を自給することで、市場のシステムとの関わりをそぎ落とすことは一つミニマルであることではありますが、そこには盲点があります。

それはやり方次第で、そのミニマルさが大きく左右されるということです。同じ野菜の栽培でもミニマルだったりマキシマムだったりします。

それは農薬や化学肥料を利用した慣行農法と、有機や無農薬、自然栽培ではそのミニマルさは大きく違います。

野菜に必要な栄養素であるリンは、その鉱山の埋蔵量に限りがあることで知られており、そこから搾取することで慣行農法は成り立っている一方、無農薬栽培では草や堆肥、生ごみなどの循環する資源によってまかないます。

また、慣行農法で当たり前に使われる除草剤や殺虫剤などは、生態系を破壊することはもちろん、周辺住民やその作物を食べる人々を環境毒に晒します。それによって引き起こされる環境負荷と、未来の世代に課した健康と生活環境の悪化を鑑みると、とてつもないインパクトを残すことになります。

この場合、慣行農法はマキシマムで、無農薬はミニマルな栽培方法と言えるでしょう。

このように同じ野菜の栽培でもやり方によって実態の規模がこうも違うわけです。これはアーバンライフにも当然当てはまります。商品やサービスにお金を払うとき、その製造過程や企業倫理が(いわゆる)持続可能な方を選択するだけで、あなたのチョイスはミニマルなものとなるということです。

天然資源サブスクリプション

アーバンライフにおけるミニマリズムの必須要素として、時代を席巻するサブスクリプションサービスは欠かすことはできないでしょう。

CDはデジタルデータによって過去の遺物となったかと思えば、もはやデジタルデータを端末にダウンロードしておくことすら削ぎ落とされて、月額会費(または無料の広告付き)のストリーミングで図書館的に音楽を聴くことが一気に広まりました。ネットフリックスやアマゾンプライムでの映画もそうなら、Kindle Unlimitedの書籍もそうですね。

サブスクでなくても、レンタカーやカーシェアなどのサービスが整備されることで、所有しなくて良くなっているものがたくさんあります。メルカリの普及も、不要になったらいつでも手放せる環境、すなわち買って不要になったら売るということは、ある意味リースみたいなものですから、所有というものの概念が薄くなっていると思います。

実はこの所有の考え方は元から田舎暮らしにあったものだと思うのです。

例えば、燃料に使う薪は山から切り出されるわけですが、その木は立木の状態にあっては成長して大きくなりさえする状態で生きたまま保存されます。これはある意味所有の外に置いておける存在だと僕は考えています。

持っているけれど、持っていない。まるで銀行のように預けている状態にも、カーシェアのパーキングに止まっている状態にも似ていませんでしょうか。そこに成長という利息までついています。それが必要になるまでは(森の間伐はあるかもしれないが)ほおっておいてもよくて、いざとなった時に伐採して割って薪にします(乾燥させないといけないですが)。

所有欲とともに手元において誰にも渡さないようにするような行為とは、同じ所有でも全然違うような気がしませんでしょうか。むしろ薪は自然環境から借りているという方が似合うように思います。必要なときに必要なだけ使えるサブスクリプション感を僕は感じます。

しかも超太っ腹な無料サブスクなのが、天然資源サブスクリプションです。水と二酸化炭素、そして土壌の栄養や酸素などの自然界の豊潤を蓄積し続ける資源を、必要に応じて使わせてもらえるのですから。

ノマドライフとサブスクリプション

その視点でノマド=狩猟採集民の暮らしを見てみると、彼らの暮らしは自然界のサブスクリプションで成立しているのがわかります。

寒くなったら暖かい地域に移動したり、
旬に合わせて食料のあるところに移動したり、

と、物を持たないからこそ、物がある場所に身軽に移動できるのがノマドな暮らし方であるのは、狩猟採集民も現在のサイバーなノマドも同じです。

移動をし続けるノマドな暮らしは現在の田舎暮らしではなかなかレベルが高いですが、季節に合わせた物資調達のエリアを把握しておいて、そこに出向くことは今も昔も変わりません。

春には筍や山菜、わさびなどを採り、夏には磯に貝を採りに行き、秋は栗を拾いにいき、と、季節に合わせて物資を獲得しに行く。そのスポットを把握しておく。まるで車が必要になったらレンタカーを借りに行くようなものです。

必要な時だけ採ってくるのですから、自然環境に保存してもらっているようなもので、一年中自宅に置いておく必要がない自然の図書館のようなものです。

我が家の薪ストーブに使っている焚き付けの杉の葉もそうですが、林内にいくらでも転がっているものを、必要な分だけ家の近くに運んでおいて、足りなくなったら拾いにいきます。

畑というと狩猟採集と対照的に定住ライフの象徴ではありますが、考えようによっては季節ごとの食料を保存しておく場とも言えます。例えば葉野菜の時期はつどつど収穫することで、冷蔵庫などに保管する必要がないわけですから、サブスクっぽくもあり、ミニマルでもあるのです。

一石数鳥の機能をもつものをもつ

薪ストーブの話が出たので、ものを持つことについて考えて見ましょう。ミニマリストは物を限りなく持たないことでもありますが、それは物を持たない暮らしを成立させるための物を持つことでもあるでしょう。

まさにスマホがそれです。

田舎暮らし的には薪ストーブもそれに当てはまるんじゃないかと思います。

例えば石油ファンヒーターができることは、温風を出すことだけです。それによって洗濯物を乾かすこともできますね。

一方の薪ストーブは、

部屋を温める
洗濯物を乾かす
調理ができる
食材を乾燥できる
ヤカンを沸騰させておけば加湿もできる
僕はしませんが、紙ゴミを燃やせる

など、多くの機能を持っているだけでなく、燃料をいちいち遠くの中東から運んだり、その取引にドルを使ったりと、大きなシステムや利権に関わることなく、裏庭の薪を利用できるだけでなく、それにともなく間伐によって森の健全化を同時に計ることができます。

それに、石油ファンヒーターのように電気(原子力や化石燃料の大きな仕組みの一部)を使うこともないですし、鉄や鋳物などのシンプルな作りなので、製造に当たる環境負荷もかなりミニマルでしょう。

しかも、その薪ストーブが穴があいたりなんだりして不要ということになれば、金属は再び溶かして再利用ができます。

百姓は人間スマホみたいなもの

田舎暮らしと都会暮らしの違いの一つは自由にできる範囲の大きさにあるようにも思えます。

住宅街に煙を撒き散らすわけには行きませんから、都会では薪ストーブではなくエアコンなり石油ストーブを使うしかないわけです。

これはサービスにおいても同様で、例えば家を直そうと思ったときに、田舎の広いところでしたら自分でやれたとしても、密集する住宅街で例えば外壁を工事しようとしたら、隣家のことも考慮しなければなりませんから、プロにお願いしなくてはならないかもしれません。素人はせいぜいハシゴを使うくらいですが、プロならクレーン車などの使いますから。

田舎と違って住宅地は法規制が厳しいことも、素人仕事を難しくします。田舎ではちょっとくらいは治外法権です(内緒)。それに場所が狭ければそのための道具たくさん持っていることも馬鹿らしいでしょうから、何かとプロに頼むことが必然的に多くなると思います。

このように、物もサービスも、用途が限定されてしまいがちなのが都会なのではないかと思います。専用機器に、専門家。一方の田舎は前述したように自分でできることは自分でやってしまう百姓気質が必要ですし、素人仕事でもなんとかなるケースが多いですから自らの能力も多機能化して行きます。

生きるための能力が多機能に拡張した人が百姓であり、まるで人間版スマホのように物事を解決します。というか、無理やりにでも解決するのです。

プロのサービスを駆使してミニマルに生きるのが都会で、
自分の能力を駆使してミニマルな仕組みの中に生きるのが田舎なのかもしれません。

自分自身の能力を一石数鳥にすることは田舎暮らしにおける必須能力ではないかと思います。

物が少ない方がいいのは都市も田舎も同じ

物も人も多機能になることによって、所有を限りなくそぎ落とすことは可能となりますが、どうしても田舎暮らしの方が物が多くなるのは当然ではあると思います。

そもそも土地に余裕があることから、物を溜め込む性質の人が多いことも確かです。現在のようにネットショッピングが発達するまでは、必要なものがすぐ手に入るという環境ではなかったのも収集癖を強化した原因でしょう。

以前お世話になったオリジナルヒッピーの人も「バックパックひとつでここに来たのに」と言いながら溜まった荷物を眺めてちょっと寂しそうな顔をしたこと思い出します。

それに自分で物事を解決することは構造上ミニマルであったとしても、そのための道具はそれなりに必要です。僕も「ミニマルに生きるための道具」が少しづつ増えていくのに、少し懸念を持ってすらいます。(とは言っても一つ持っているだけで多くの能力を拡張するような道具はやはり手元にあってほしい)

やはり物は少ない方が良いと、田舎暮らしを実践する中で思うことは多いです。

物が増えれば、収納のための場所が必要ですし、物の管理も必要になりますし、その収納そのものの整備も必要になります。

例えば農機具をたくさん持っている人がいるとしたら、まず農機具小屋をこしらえる必要があります。エンジン付きの農機具は使わなかったとしても定期的に動かさなければ余計に整備の手間がかかります。そして農機具小屋そのものの掃除はもちろん、屋根だって10年20年たったらメンテナンスしたり葺き替える必要が出てくるでしょう。

家の中も同様です。

特に自然の多い田舎の古民家などは霧や露などの影響もあり、湿気が多いです。そのため物をただ収納しているだけでカビが生えることなど日常茶飯事です。

したがって、特に使わないものをただ持っているだけで、その周辺にある、使うものまでカビさせてしまうことがあります。そして物たちによって風の通りの悪くなった部屋そのものまでカビが広がります。

田舎こそタイニーハウスなんだと思う

田舎に住めば住む程、物は少ない方が良いと思います。物が少なければ管理の手間が省けます。掃除が楽になります。ヘンリー・ソローが自作の小屋へのカーペットのプレゼントを断ったことを思い出します。それは掃除が面倒になるからです。家具がなければ掃き掃除も拭き掃除も楽ですから。

部屋自体が小さい方が管理が確実に楽になります。大家族で住むことを前提とした田舎の古民家は現在の家族構成では広すぎますから、結局は使わない部屋があるものです。ちょっと使わないで閉め切っておくと、すぐにカビ臭くなります。

そんな部屋は最初からなければ良いと思うのです。

だから僕は、敷地内にタイニーハウスを建てようと思っています。住むスペースは小さくて良いです。その代わり作業場は広く解放的であるに越したことはないので、元からある納屋はしっかり管理しようと思っています。

部屋を小さくするメリットに、暖房効率の良さも挙げられます。古民家は隙間風が入ってくるので、暖房効率はどうしても落ちますし、無駄に広ければただ温まらないだけでなく、余計な燃料を消費してしまいます。するとたくさん薪を作らないといけません。そのための作業はもちろん、チェーンソーの燃料も必要なら、薪を乾燥させるための場所まで大きくする必要があります。

その問題は家が小さければすぐに解決しますし、ストーブの熱が家中に行き渡れば、収納物のカビをはじめとした湿気の問題もすぐさま解決します。

広くて管理が大変ということは、時間がかかるということです。

小さくて管理が楽ということは、身分を超えて平等な1日24時間という時間を有効に使えるということになると思います。

これが都会であれば土地の単価が高いわけですから、物が多いということは収納のために大きな費用を払っていることになるでしょう。その費用とはお金を稼ぐために供出した時間を払っているということになります。

時間を無駄にしないというところを突き詰めると、ミニマリストになってしまうものなのかもしれません。

生活環境を丸ごと使うということ

すでに述べたように、物を持たずミニマルに生きるということは、周囲のマキシマムな環境に大きく依存するということです。

冷蔵庫の代わりに飲食店
車の代わりに公共交通機関
本棚の代わりに図書館
風呂の代わりに銭湯

のようなことが都会暮らしでは考えられます。

このように周囲にあるインフラを生活の中に丸ごと取り込むことによって、持っているものを削ぎ落としてミニマルになることできます。

僕のような田舎暮らしで言えば、

車で15分圏内に複数の良質な温泉があり、
眼前広がる山谷と澄み切った空気に癒され、
蛇口からは地下から汲み上げたうまい水が出てきて、
食料を調達できる大地があって、
燃料や建材を供給してくれる森があって、、、

と、僕が都会に暮らしていたら簡単に手に入れられないような価値に囲まれて暮らすことができています。この環境に満足しているのでほとんど出かけませんからね。

その人その人のスタイルに合った環境で生活することができれば、周囲にある恵みを最大限享受できるわけですから、暮らしをよりミニマルにすることができるでしょう。

そうです、都会のミニマリズムも、田舎のそれも、結局のところは周辺環境のマキシマムな豊かさに支えられることで成立しているということが良くわかります。

豊かで便利な環境を周囲に整備することができれば、僕たちは物への執着を離れて、もっと豊かな生活と精神性を築くことができるのかもしれません。

地球規模にミニマルな暮らしを

もっと豊かで便利な環境を整備するということはどういうことでしょうか。

きっとそれは、目先の経済発展だけに目を向けた、環境収奪型の産業ではなく、むしろ生態系の豊かさの向上に利するような経済を構築することではないでしょうか。

資源を奪い取るでなく、ただ単に持続可能であるだけでなく、むしろ自然に対して与えて行くような暮らしというのが実現した先に本当のミニマリズムがあるように思えます。

これは持続可能な「経済発展」と言っているうちには達成できないのではないでしょうか。なぜなら経済の発展を可能にしてきた資源は、金属から石油から放射性物質まで、自然環境が長い年月とともに作り上げた無料の奉仕の上に成り立っており、人間ができることなどそれらをちょっと組み合わせたり、成形したりするくらいです。

自然の恵みがなければ、これまでの経済発展というのは不可能だったということになると思います。その自然からの収奪がとどまるところを知らず、生態系が世界規模で大きく乱れている現在、これまでのような形での発展なんてできるとは思えませんし、できるとしたら、奪えるところまで奪い切ることでしか達成できないように思えます。

その影響もあるでしょう、日本でも甚大な災害が続いていますし、世界的にも気候変動の兆候が各地で見られています。

水不足で苦しんでいる人たちも増えています。年間の降水量は変わらなくても、大雨となってまとめて降ることが多くなると、濁流となって一気に海まで流れてしまうので、生活用水として賄える量が少なくなってしまいます。木々の伐採によって大地の保水力が落ちていることも原因の一つでしょう。

西日本豪雨が襲った2018年の降水量も年平均でみると特に記録的ではありません。岡山の2018年の降水量は1410mmだったのに対し、2017年が1205.5mm、2016年は1513mmでした。(気象庁よりーhttp://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/monthly_s3.php?prec_no=66&block_no=47768&year=2018&month=&day=&view=p5)

水を確保するのが難しい環境となれば、飲み水は何処かから運んでこなくてはなりませんからミニマリストとか言っている場合ではありません。雨水を頼りにした小さな農業を営む個人も大きな影響を受けるでしょう。

気候の変化は食べ物の生産にも当然大きな影響を与えます。少し前には米不足によってタイ米が日本中に流通したことを思い出して見てください。

このままでは水や食料を確保できるところからそうでないところに分配されるような、中央集権的で大きな仕組みに頼るしかなくなってしまうかもしれません。

前述した野菜の生育に不可欠なリンの鉱山は日本にはなく、すべて輸入に頼っていたり、石油だってはるばる海を渡ってくるように、個々人ではどうにもならないような流通網の中に水や食料のような生活の根本まで組み込まれないとも限りません。

もはやリンのおかげで食料が賄われておりますし、その食料の運搬を石油に頼っている以上、僕たちの生活の根本はもはや巨大なシステムによって賄われていると言っても過言ではないでしょう。

この先、必要なものがいつでも手に入るなんて環境が過去のものになり、個々人はミニマルに暮らすなんてことはとてもできなくなるかもしれません。

いや、ミニマリストはノマドのごとく、より豊かな地を求めて移動して行くことでしょう。しかし、行先がどんどん少なくなっていくかもしれませんし、行く先々に人々が殺到するかもしれません。

やはりミニマリストがミニマリストたるためには、マキシマムで豊かな環境を保つことに意識が向かざるを得ないのではないかと思います。

あっちに木の実、あっちに果物、あっちに魚介と、行く先々に食べ物が待っているような、縄文のような豊かな自然環境さえあれば、何一つ持たずに暮らしていけます。

無駄な思考や時間をそぎ落とし、新しい価値や発想を生み出す余白を手に入れることができるのがミニマリストなライフスタイルです。それは近視眼的な視野をより俯瞰的で抽象度の高いところに昇華することとも言えるでしょう。

そうなれば地球規模、もっと言えば宇宙規模でものを見るようになるのは必然なのかもしれません。

ミニマリストであること、物をそぎ落として小さく生きることは、フットワークを身軽にして物理的な移動能力を高めるだけでなく、拡張した意識が空間中を飛び回り、物事の本質を見やる能力を手に入れることなのでしょう。

物の呪縛を離れて、宇宙規模で意識を逍遥させる。新しい時代はミニマリストの自由な思考によって作られるのかもしれません。そんな彼らはもはやミニマムでもなんでもなく、これ以上なくマキシマムなんでしょう。


















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