壁に挑む勇気、逃げる勇気

登山家の栗城史多さんがなくなられた。

その死を悼む声が聞こえる一方、プロの登山家からは否定的な(あるいは「無謀」といった)声も聞かれる。

そんな主張なんて無視しておけばいいのだが、もやもやしてしまって、自分の「感じ方」をここに書いておかずにはいられなくなった。

もちろん、登山のことは門外漢で、栗城さんの活動を詳細に知るわけでもない。あくまで外野の人間の「感じ方」である。


栗城さんにお会いしたのは一度だけ。10年前のこのインタビューだった。

私自身、本業以外の活動で、見よう見まねで取材の依頼をして、突撃で会ってもらった。インタビューなんて人生で2、3回やったくらいの、やる気だけの身分だった。

でも、栗城さんは分け隔てなく接してくれて、いろいろと話を聞かせてくれた。当時から彼は一点突破。スポンサーも人を辿っていって「わらしべ長者」という発想が彼らしいなぁと思った。印象は、自分の「想い」に正直に行動する屈託のない青年だった。当時から「見えない山を登るすべての人へ」というメッセージを胸に抱いてて、「無理」に挑む自分の姿が、誰かの勇気になればいいとの願いを込めていた。

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そんな彼のエベレスト挑戦は、登山のプロからすると、実力からはかけ離れた「無謀な」挑戦だったそうだ。

「成功するわけはない」

それをわかっていながら、夢を語って、メディアやスポンサーからお金を集めるのは、ファンを欺く行為だ。

夢の安売りでは?と。

でも、私はほんとうにそうだろうか、と思う。

彼は、成功する可能性があるから「山」に挑むのではなかった。

「無理だという決めつけ」「常識」に抗いたいから山に挑むのではないか。

登れるかどうか、結果でしか物事を判断できない人は、(過去の実績から鑑みて)絶対に無理で、それを自覚しているのならやるべきではない、と決めつけるだろう。それは「無謀」なのだと。

でも、彼が大切にしているのは「結果」ではなくて、「過程」だった。

むしろ実力・経歴から絶対に無理だと断言されることに、挑むと(自分で)決めること。

資金ゼロからわらしべ長者のように支援者を募ること。

あえて危険なルートを選ぶこと。

そこに価値を置いていたように思う。

「挑む前の気持ち」を、他人と共有したかったんじゃないだろうか。

だからこそ、彼が「下山」=降りる勇気を強調したのは必然だと思う。

「生きる」と「挑む」のバランスの結果が、すぐに降りるという判断であり、まさにギリギリのところでやっていたのだと想像される。

私が、本当の意味ですばらしいと感じるのは、「壁に挑む」のと同じくらい「山を降りる」ことを大切にしていたことだ。

煽って、煽って、挑戦させるだけの人なら世の中にたくさんいる。

でも、成功体験のない人ほど、結果が出ていない人ほど、どこまで頑張ればいいかわからないし、ブレーキが踏めなくなるものだ。

アメフトもブラック企業も農業アイドルも、根っこに同じものを感じていて、それは降りられない悲劇だと思う。優しくて真面目で引っ込み思案だからこそ、自分で抱え込んで、引き返せないところまで行ってしまう。

「壁を超えろ!」「殻を破れ!」「自分を変えろ!」

梯子をかけるだけかけて、アッパーな言説が個人の逃げ道を潰す。そんな時、「下山したっていいじゃない」「生きて帰れれば、次また挑戦できる」「執着しないってすばらしいよ!」というメッセージがあれば、どんなに救われるだろう。勇気だけじゃなくて優しさも持ち合わせていた人だったこそ、そんな稀有なメッセージを発することができたのだと、感じます。


今はただ心からのご冥福をお祈りします。


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壁に挑む勇気、逃げる勇気

坂口惣一

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坂口惣一

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