自分がいちばんわかっている。

なんなら上司へのごますりのような記事である。

書籍は新聞広告を出すことで大きく売り伸ばすことができる。書籍編集者は、もちろんのことながら、担当した本を広告してほしい、といつも願っている。他社の全五段広告(新聞2・3面の下いっぱいのあれです)をみては、あぁうらやましい、俺の本もここに出したらはねるのに、と思うこと多々である。

すると人間、不思議なもので「原因と結果」が入れ替わりはじめる。

「なぜ俺の本が売れないのだ。それは広告を出さないからだ。広告さえバンバン出せば、もっと売れるはずだ」などと(本気で)考えたりする。

これ、書籍の広告に限った話でもなく、わりとよくある話ではないかなと思うのです。となりの芝生が青く見える。あのメディアだったら、大手だったら、あの学校の卒業生だったら、云々。

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以前、社内で広告をもっと出したいという熱が上がった時期があった。どうすれば新聞広告を出すことができるだろう。編集長と議論しているとき、ふと気になってこんな質問を投げかけた。

「他社がうらやましくなることありませんか?」 

僕が聞きたかったのは、自分の担当作が他社の販売戦略だったら2倍売れるかもしれない、とか。この本のポテンシャルはこんなもんじゃない、とか…そんなことだ。

「そりゃあるよ」

「やはり…」

「こんな本でも広告の力でこんなに売れるのか、って」

「…ありますよね!!」

「ある」

「納得いかなくないですか?」

「でも、自分ではちゃんとわかるでしょ?」

「え??」

(※記憶を頼りに書き起こしているので多少の脚色ご容赦ください)

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つまり、本当にコンテンツに力があって、本の力で売れているのか、それとも広告で売れているのか。部数という結果の差が出ていても、それは作り手である自分「だけ」にはちゃんとわかっているでしょ?ということだ。

極論すると…

自分であんまり納得がいってない本が、社内の広告戦略にのってTV や広告でベストセラーになることがある。一方、力を込めた1冊がなかなか手をかけてもらえなくて、伸び悩むこともある。

どちらの本に本当に力があるか。

どちらに自信があって、広めるべきコンテンツか。作り手自身はわかっているはずだ、と。

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伝え方がむずかしいのですが、僕がここで解釈したのは、作り手がすべてを決めるんだという不遜な思い込みでも、売れなくてもいい本があるよね〜的な牧歌的な投げかけでもないのです。

修行僧が日1日を大切に石を積むような、内面への妥協のなさ。中学時代の部活で「校庭10周、走ってこい!」といわれたときに、9周でごまかさない誠実さ、とでもいいますか。自分の中の基準をないがしろにしない。自分への「敬意と信頼」だと思うのです。

もちろん、仕事は読み手のためにしてるけれど、最初の読者は自分なわけです。そこでどんなルールをつくって、厳しく見ていくか。

相手に嫌われたくないと著者さんに意見できなかったり、デザイナーさんに修正依頼を思いとどまってしまったり。あるいは原稿の中身に納得がいっていないけれど、時間がないからと進めてしまったり。誰も気づかないし、結果(数字)には現れないかもしれない。でも、それ、自分ではちゃんと気づいているんです。自分の「基準」をつくるのも自分なら、守るのも破るのも、自分なんです。

世に問うた瞬間に、結果はおのずと出てしまう。

だからこそ、それとは別の次元で見れる人はつよいなと思います。

肝に銘じなきゃです。「自分では、ちゃんとわかっている」んです。



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大吉!
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坂口惣一

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