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Nothing

よいす。

こっちを主戦場にすると言いながら、手軽なTwitterに甘んじていることをまず自戒。

いつものごとく独り言を垂れ流しているので、意識高い人、noteで啓発されたい人なんかはもうブラウザバックしてください。前提として書いておくと、これは何かの反論でもなければ、どちらかというと反省と自戒を込めて、ただただ率直に思うことを備忘録として残しておこうっていうものです。

じいさんが亡くなって、それからなんとなく身の回りにも色々あって、これから先のリミットを考えたりしてあれこれと人生について打算的になったりしていた。

いい加減な歳になってくると「自分はこんなもんか」という客観視というか、高望みをしなくなるというか、いわゆる「青年期に抱いていた無茶な夢」みたいなものと現実の距離感を掴むというか。これが大人になることなのかもしれないなあとちょっと思いつつも、よくわかっていないからやっぱり青臭いあの頃のままかもしれない。心のどこかではまだまだやれると思っている自分もいる。でも不可逆的に失ってしまったものもたくさんある。夢物語では取り戻せないのは「時間」が関係したことだと思う。

焦っていないかと言われれば嘘になる。自己の成熟と衰え(という言い方をしたらきっと各方面から怒られるが)を確かに感じて、今の立ち位置で為さねばならないことみたいなものを強く意識したり(例えばそれは結婚だとか子育てのようなものが大きい)、残りの人生を逆算したときにあと20年か30年でできること、みたいなものを探したりもしている。生きるとはかくべくあるものか。あるいは何処へでも旅立つものなのか。そんな命題はいつまでも尽きない。

とかくコロナ禍になって、時間に野放図になってしまいそうな自分にあるとき気づいて、「急ごう、さもないと地球が滅びてしまう」っていうどっかの会社のスローガンなんかを思い出して。元来一人でどうにでも生きていけると思っていたので、逆説的にとんでもない焦燥感を感じてしまって、去年の今頃は実はものすごく鬱みたいな感じになってました。それ自体は周囲との関係とか自分の立ち位置で取り戻した部分もあるのだけれど、どんなにステータスを高めたとしても能動的にしか変えられないこと(さっきの結婚とか子育てとかのようなもの)は黙っててもやってこないことに気づいて、やっぱりどうにかしないとな。というので最近また色々思うところがあったりもして。

その一方で、なんもかんもめんどくさいし、ぬるま湯のようなところでダラダラ生きていても別に何の文句もないよなって思ってる自分もいる。その葛藤を他人に露呈したらダセえなっていうか、そこまでの距離感で多くの人と付き合っているわけじゃないっていうのが本質なんだよな。わかってくれてる人はわかってくれてる。けど、その外側のレイヤーでは「ただなんとなく楽しそうに生きてる人」を演じているかもしれない。

楽しいのは事実なんでそれは別にいいんだけれど、人によってはそれが「無理をしている」と映るのかもしれないなと。だからこそ、そこのレイヤーの片鱗を見透かしたときにはそれはある種の自己投影を含んでとんでもなく嫌悪感を抱かれるのかもしれない。実際にそういうことがこれまで何度かあったし、そういう人間だなという自覚も薄々ある。

それは自己の本質なので結構深いところで反省しなきゃいけないんだけれど、これは前もこういう話をしたときに言い放ってしまったのだけれど、「現時点で僕がアウトプットできる精一杯はこれなんです。だから許して欲しい。」が回答。だって、反省してブラッシュアップしてもあなたの望む人間には到底及ばない。そういうくだらない人間なんです僕は。

とはいえさ、正しく生きていたいし前向きにだって必死こいて踏ん張りたいとは思ってるよ。そういう「生身の人間の悪あがき」にこそ美しさがあるとは思わないかね。ときにそれは諸刃の剣になるし、誰かを傷付けることになるかもしれない。けれど、人を傷付けずに穏便に生きていける人間なんてこの罪深い今生においてあり得ないでしょ。

優しい人間を繕っていながらも、誰しもが多かれ少なかれ「臆病な羞恥心」と「尊大な自尊心」の狭間で葛藤している。そんな人生にこそ、人間臭さを感じないかね。僕はそんな「人間の本質の片鱗」を見たときが一番感動するんだ。細美さんもこないだ言ってたけど、「俺たちは器用にやってるように見えるかもしれないけれど、やっぱカネでも名声でもないとこで泥臭くやってる奴らだけが信用できる」というのが真実だと思う。

ああ、これは自己弁護だな。いや、そういうエクスキューズではないのだけれど、元来そういう人との距離感みたいなものを推し測るのが得意な人間ではないんだ。ごめんね。

率直に言われると堪えるものはある。そんなことテメーに言われる何十年も前から自覚してんだ。ってわかりきった話もさんざ人に説教されたりする。だけれど、やっぱりそこがウィークポイントで30年かかっても治らない自分の本質なんだなあとも思ったりするわけ。これはいかんですね。反省。

どうしたって、苦しいときとか何かに追われているとき、人はバイパス線のように安楽な方向に流れていくなと、それも傾向として後々反省している。なので、うまく折り合いをつけるというか。そういう強く自分の思想が絡んだ発言はやはり軽率にTwitterでやるべきじゃないな。若しくはインタラクティブなコミュニティでは慎むべきだな。というのが正しいと思う。その上で自分のことを嫌いになったならそれはもう仕方のないことだろうと。

という2000文字に及ぶ御宅を並べた上で、ちょっとTwitter休止してみようかと思います。あまり軽率でシームレスな物言いは生産的じゃないものね。でも情報収集としてはROMってます。別に本来こんなもの発信しなくたって生きていけるのだから、いかにローテクで生きていくか、みたいなとこなんだけどさ。

SNS向いてないって昔から人に言われて、何度かそういうことについて真面目に考えたこともあるのだけれど、「辞めろ」って言われるのは簡単だけれどじゃあそういう気晴らしのアウトプットみたいなものの代替案はどこにあるの?っていうのがまだ見つからないので、そういうのを模索する期間にもしたいね。それで作曲の精度が上がるならさっさと辞めちまえばいいしね。笑

今日も宵の明星が美しかったけれど、金星を眺めるたびにあの歌詞を思い出すね。

今はもう

ねえ この夜が終わる頃 僕らも消えていく

そう思えば 僕にとって 大事なことなんて

いくつもないと思うんだ


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