見出し画像

I hate it

弊社の呟かないTLで皆さん平和にお過ごしですか。こちらは元気に過ごしています。

微弱な快楽に甘んじないほうがいいなっていうことを前提として(その話はまたいずれ書くとして)時々いろんなルーティンをリセットしてみるってのは大切なことだね。これは社会人になって身に着けたものだけれど、非常に大切なことだと思う。そのうえでいろんなことを反芻して、もちろん現状益の大きい状態でここまで来ているのだけれど、考えたことなんかをまとめてみる。

まず、「誰かが何かを啓発しよう」等と発言する言葉はまずもってそれに感化されることなどない。というのが自己の体験としてある。むしろそれはトラウマ以外の何物でもない。「お前はやり方を変えるべきだ」「もうやめたほうがいい」「君のためを思っているんだ」そんな言葉に愛があった試しはない。少なくとも30年足らずの僕の人生では。

そして、「才能」という言葉がやはり嫌いだ。「才能がある」という肯定はその裏に「お前は努力もせずにたくさんのステータスを横取りした」というニュアンスが拭えない。仮にそんなつもりがなかったとしても、僕がギターを弾けるのも独立起業したのもいろんなことにチャレンジしているのも「才能」ではない。それは実直な努力だ。「才能」という言葉を安易に使う人はそうやって努力を否定したり、わかっていても見なかったことにしてスタートポジションをずらそうとするんだ。だから才能という言葉が嫌いだ。

前にも書いたけれど、ことばはいくらだって人を傷つける。「愛があれば、それを乗り越えた先には友情や真実や功績のようなものが必ずある。」という精神論がまかり通るなら、ことばによって殺された人たちは全員そのマインドが悪かったということになる。発言者には何の罪もない。言い放って、誰かが傷つこうがそんなものは傷付いた相手が悪いのだ。

まあ、SNSにおいてはそのロジックがある程度通用する。だからこそ匿名性の高い相手には諦めることや「敢えて信じない」ということは大切かもしれない。だけれど、勝手知ったる仲ではそのことばには責任が発生するというとを、実は強いことばを使う人のほうが理解していないんじゃないか?と思うことは多々ある。努めて、僕は誰かを批判するようなことばを使うとしたらそのことばには責任をもって、訴求されたなら釈明したり謝罪する責任を全うしたいと思っている。だけれど、反対に僕のことばに異議を唱えた人で未だかつて、その発言(もしかしたら自分で言ったことも忘れてしまっているのかもしれない)に責任をもって弁明した人はいない。そのくらい、他者にとってことばは「どうでもいいもの」なのだろう。

文字を紡いで音に載せることを趣味とするものとして、やはり「ことば」は美しくありたいなと思う。もちろん失敗はたくさんするし、不埒なことばも出てしまうことはある。けれど、相手の本質に刺さることがあっても相手を否定することばは決して発していないつもりだ。これまでも、そしてこれからも。もしそういうことがあったのだとしたら、僕のいまの理解では及んでいない感情があるのかもしれないから教えてほしい。

これは「感情論」だとか、「議論」というレイヤーの話じゃない。もうちょっと本質的なやり取りの話だ。「フェイクかそうじゃないか」ということですらそれはレイヤーに過ぎないのかもしれない。メタファーをメタファーとして汲み取れない人とは話ができない(というか誤解しているならそう知らせてほしい)という話でもある。いささか、難しい話で相手をやっつけるのにはそれ相応の意味がある。というレイヤーを理解してほしいんだよね。

そういう「入れ子構造」の中と外を見比べたときに、自分の立ち位置や考えの幅みたいなものが見えるんじゃないかな。そんなことを思って歌詞を書いたりしている。普遍的でいて深遠な道理のようなものが見抜けたら、もう少し人として成長できるかな。

サポートしていただけたら嬉しいです。継続する励みになります。