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Quality of you

安易な同調や肯定はいらないって昔から言い続けてい流けれど、どっかのタイミングでマイノリティを主義にし始めたのは人と違っていることを矯正された事への反発だったのかはいまとなってはよくわからない。

ここ最近はなんていうか、リアルに人生の時間軸みたいなものを突きつけられていて、どうにもならないことをどうにかしなきゃいけないみたいなムーブメントっていうか、まあ簡単に言っちゃえば焦燥感みたいなものに苛まれているのだけれど。

自分の生き方はいつだって自分で選んできたし、理不尽だと思うカードも全て受け入れて生きてきたつもりだったんだけれど、実はそういうものを選んだり手に入れる努力をしてこなかったのかもしれないなってふと思ったりすることがあって。その結果をいま刈りとっているに過ぎないのかもしれない。と、そんな風に思うことがあって、じゃあ正解の道だったりそのための正しい努力ってなんだったんだよ?己のアイデンティティまで捨ててそれを目指すべきだったのか?みたいな禅問答に陥ったりもしてて、ずっと頭の中でそういうことがループしている。かと言って、じゃあ全て今までの人生フルコミットでやってきたかと言えば無駄足や遠回りだってたくさんしてきてる。それに無理やり意味を付すのは事後的にはただ傷を舐めるに過ぎないし、理由は結果を生むわけではない。

なかなかに、自分で自分を程よく肯定するってのは難しいもんだなと思ったりもするよね。お前は自分を過小評価しすぎだと人には言われるけれど、そうじゃないんだよ。自分に失望するのが怖かったり、自分が仮定した答えにすら辿り着けないのかと自己憐憫したくないだけなんだ。だから裏返すと本当は自分にとんでもない期待を背負っていたりする。ただ、いつだってそんな風に逃げているんだ。リスクヘッジを作って。

いっそのこと、わかりやすく守るべき家族、背負うべき苦しみさえあればそれが生きる理由になるのかもしれない。と思うこともある。ある種自分の決めた矜持のために生きるっていうのが一番難しいことだとも思う。最終的に人は人生をかけてそれを追い求めるはずなんだけれどね。

なんて、どれだけ成長していないんだろう、自分。もう人生半分以上生きたのにさ。くだらない。

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