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Tell me how can I be such a stupid shit

うまく言語化できるかどうかわからないという前提だけれど。

「わかっててわからないふりをする」のと「わからないことをわからないと言う」のにはとても大きな隔たりがあると思うのだ。

同じことで「知っている前提で洒落ること」と「知らないのに喚く」ってのには雲泥の隔たりがある。

ここのコンセンサスが得られないと、どうしたって会話の溝が埋まらなかったりするのだ。だからこそ教養は大切だと思っている。

真面目な記事を書くときと、そうでない時の温度差が激しいなあと自分でも思うのだけれど、ぼくは基本的にふざけた人間だ。ただし、中身のあるふざけかたをしてきたつもりでもある。

某氏が

深夜のTwitterにはさ、

「さみしい…」

などと書きそうになって、いかんいかん、そんな事書いてもなぁと消してる人が沢山いるよね、多分🙂私もよ🙂

ってツイートしてたのを見て、ああ救われるなあ。なんて思ってしまったんだ。弱いなあ、自分。

前を向いていても、不意に折れたりもするし、折れかかっていたものがすっと立ち直れたりもするし、まことしやかに人生はままならぬと思うのだ。

こと最近はそういうことが多くて(もっとも、鬱っぽかった時期から抜けたことを考えるとこれでもかなりいい方なのだが)どうやって立て直そうか、とか色々画策するのだけれど、これは自分にとってものすごく大きな進歩なのだけれど、最近では「前を向く力がないのなら、前を向けるだけの理由を作ればいいじゃないか」なんて思うようになったのだ。

どういうことかっていうと、ずーっとこれまでは「気持ちが落ちたら立ち直れないから、ゆっくりじっくりそれを受け止めて、自分で自分に対してそれを言語化して見て、ああなるほどね。」って思って完結するまでが自己内省だったのだけれど、「気持ちが落ちるくらいなら、自分には胸を張って努力していると思えるような理由をたくさん持てばいいし、そのための目標を立てればいいんだ。」というところまで進歩してきている。ごく当たり前のことかもしれないけれど、いざ自分に対してそういう意識付けができていたかっていうと、すごく大きな壁だったような気がする。というよりも、「可哀想な自分が可愛かった」のかもしれない。

いい加減な歳になってくると、自分で自分を可愛がっていても誰も振り向いてくれないのだ。あれ、デジャヴのようなことを書いている。

しっかりと、立ち上がって挑戦していく気持ちがあるっていうのはいい変化だとぼくは思っているんだけれどね。その気持ちすら起こらないほど滅入っていた20代、どうか後輩たちには経験して欲しくない20代。考えてみれば、ぼくの人生はかなり遠回りで失敗だらけだった。いまだってグラベルをスタックしかかっている。けれど、抜け出すためのメソッドはたくさん持てた時期でもあった。あとそこに必要なのは馬力だけだ。

You said today is not the same as yesterday.

One thing I miss at the center of my heart.


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