ぼくが高橋源一郎を“パクった”頃

「○○の頃の自分に教えてあげたい」という常套句がありますが、まさに「大学生の頃の自分に教えてあげたい」ことが起きました!

高橋源一郎さんにインタビューできたのです!

ぼくは高橋さんに、ものの見方や考え方に多大な影響を受けました。
ぼくの脳みそを、高橋源一郎を知る以前と知った以後とで分けることができるくらい。
いわば、「神」に近い存在のひとりです。
大学の卒論も「高橋源一郎」でした。

今回のインタビューは文春オンラインで不定期連載している「テレビっ子」シリーズ。大好きな方に、大好きなテレビの話を聞く(しかも、ご本人の仕事場で!)という何重にも嬉しい仕事でした!

前編 http://bunshun.jp/articles/-/7503
中編 http://bunshun.jp/articles/-/7504
後編 http://bunshun.jp/articles/-/7505

そんなわけで、今回は、『別冊Bros. Vol.1 2015夏』に書いた原稿を若干修正して再掲します。確か、各人がなにかの3本について書くという企画で、僕は高橋さんの著作3冊を挙げて書いたのだと思います(と思って読み直したら4冊挙げてた)。

「ぼくが高橋源一郎をパクった頃」

「本屋に行くと“光っている本”がある」なんてことをピースの又吉直樹がよく言っています。そんなバカな、普通はそう思う。けど、経験するとよく分かります。僕にとっての“光っている本”は高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』でした。大学の頃、本屋で見かけ引き寄せられるように手にとってレジに置いたけど、今となってはその理由がなんだったのか分からない。だから“光っていた”としか言いようがないのです。本を開くとギョッとした。わけが分からない! けれどなんだろう、ここには何か大事なことが書かれてあるはず、そんな確信がありました。何より、本から漂う言い知れない哀切感に胸が苦しくなってしまったのです。言葉が立体感を持って迫ってくる。
言葉って言葉だったんだ。
思わずそうつぶやいたことを覚えています。一体ここには何が書かれているのだろう。本人が書いたものにその答えが潜んでいると思って、僕は高橋源一郎が書く小説はもちろん、批評とかエッセイとかを買い漁った。その目的をもっとも果たしてくれたのが『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』でした。ここに書かれているのは、批評でありながら、エッセイ的であり、小説的でもありました。彼の批評のターゲットは、文学はもちろん、テレビや『別マ』、則巻アラレに至るまで、多種多様。それを同じ目線で読み解いていたのが新鮮でした。そうして高橋源一郎の書く批評の虜になったのです。
僕はテレビについて書いたブログ「てれびのスキマ」がきっかけでライター業に転身しました。誰も気づかないし、気づく要素はほとんどないけれど、僕の書くブログ記事のスタイルは、実は高橋源一郎の批評の書き方を模したのです(自分の中では)。たとえばそれは『文学がこんなにわかっていいかしら』などに見られる巧みな引用のはさみ方。時に大胆に引用を多用しながら自らの文体も変幻自在に変えていくことで、その本の魅力を伝え、原本を読みたい気分に誘ってくる。それはテレビ批評にも応用できるのではないか。そう思って始めたのが「てれびのスキマ」のスタイルなのです(言うまでもなく、到底その域には達してませんが)。
最も影響されたのが『文学なんかこわくない』。ここで書かれている、文献を丁寧に積み重ねることで、そこから見えるモノを紐解いていく手法を僕は「タカハシさん」から“パクった”のです(相当に稚拙な模倣だけど)。そして何と言っても巻末に収録されている「文学の向こう側Ⅰ/Ⅱ」は、何かを深く考えたいと思った時に必ずこの頁を開く程。そこには「文学」とは何か、「政治」、「正義」、「言葉」……とは何かが丁寧に反芻されながら書かれています。けれど、何よりもそこにあるのは「考える」とは何か、ということ。
高橋源一郎の批評を読むと、自分が頭が良くなったような気になる。と同時に、いや、それ以上に、自分が何にも分かってない奴だということをつきつけられます。でも、分からないことなんかこわくない。考えるとは、つまり分からないことを分かるということなのだから。


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