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聞いてほしい「だけ」だった

少しだけ私のこと

突然ですが私は満員電車に乗れません。
そう言うと大抵は「わかるよ、私も苦手ー」「大体みんな苦手だよね」
とやさしい同意の応えが返ってきます。
が、たぶんちがう。それちがうの。

そう、その「みんな」はたとえば友達との約束の時間や、もっといえば毎朝の通勤通学ではきちんと乗るべき電車に乗っていけるよね?

一部の方にはあぁ。と納得してもらえると思う。
そしてそのうちのもっと一握りには本当に共感してもらえているかもしれない。
行かなかれば、乗らなければいけない状況でも電車から降りてしまう。
あるいはどんなに楽しみな予定だったとしてもその電車が混み合ってくると電車に「乗っていられない」のです。

一番症状がひどかったころに病院にいっていればいわゆる「パニック障害」だろうと思う。5年かけて大分緩和して、今は「広場恐怖症」というやつ。
多分電車乗れる。けど、もしかしたら行けないかもごめん!という感じ。


書くことで実現したいこと

今回のこのプログラムに参加した理由は、前回の記事「書く習慣が身につく1週間プログラム」に参加します」でほぼほぼ書いてしまったんだけど、「書く」先を突き詰めた時に何を実現したいかを改めて考えてみると、今の目標は「話を聞いてもらえる素地をつくること」だと思った。
なぜなら、私が上記の状態になってしまった原因の結局は私自身が「話を聞いてもられる努力をしてこなかった」から。

話を聞いてもらえるとはどういう状態か

悩みを相談できる人をきちんとつくれればよかった。溜め込んだ愚痴を外に出す勇気があれば、それだけで不自由な足枷をつける必要もなかったかもしれない。今現在も以前の職場で楽しく働けていたかもしれない。
実際に仕事自体はとても楽しかったから。

でもそれよりも、もっと根本的なところで。
悩みを抱えた時にきちんとした「言葉」で上司や大人と意見を交渉できるようになることが必要だったと思う。
今になって思うことだけれど、上司だってあたりまえに人間だし、私より少し長く生きてたまたまその場所に先に居ただけで、私の親でもなければエスパーでもないので、「きちんとした手順を踏んだ言葉」以外で私の悩みを察することはできないし、する義務もない。私がこれから生きていく延長ラインに立っているに過ぎない。

もちろん、とてもしんどい時期にそれ以上無理をする必要はないけれど。
そんなときはゆっくり休憩してほしいし、自分も休憩を選ぶけれど。

逆の立場をすこーしだけ想像できるようになった今なら。
たくさん休憩の時間をもらった今なら。
なにか言いたいことがあるときに急にその問題だけ話してもなかなか理解まで進めるのは難しいと思う。
普段からたどたどしくてもきちんと言葉で、周囲とコミュニケーションをとっていかなければ、「私がどういう風に思う人間か」わかってもらう努力が私側に必要だった。
「赤の他人」から「同じコミュニティで働く同志」になる努力が。

そう思えるようになった私は少しだけ成長できた気がする。
だから、noteというとても寛大なプラットフォームをお借りして、言葉でコミュニケーションをとる練習をさせてもらっている。
ただ「聞いてほしい!」だけでは少しわがままだったかもしれない。
周りの人だって、なにも意地悪で話を聞いてくれなかったわけではなかったと思う。(なかにはそういう人もいないこともないけれど…)大抵の行き違いはコミュニケーションをめんどくさがった「つけ」なんだろう。

私の話を聞いてもらえる「素地」を、これから作っていくことが当面の目標です。

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