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【言葉の獣】1冊の漫画に20年もののコンプレックスを肯定される予感




みなさんは、文字に色があったり、感情に形があると思う?


…などと29日未明、
20〜30代の不審な男がうわ言のように繰り返しており…



気が触れたわけではないのだ。
いつも通り。信じてくれ。


私は、物心ついてからずっと
言葉に形容しにくい、この「なんとなく」の感覚がある。



今もそうで、例えば
「あ」は赤っぽい、「い」はもやが強い白っぽい、「う」は白の強い水色…など


所謂、
文字上や、一次的に受け取るものとプラスで別の印象がくっついてくるのだ。




前述した通り、これが私には当たり前であったため、
「ああ、自分は思い込みが強くて色んな情報をくっつけて記憶してるんだなあ。」と
理由をつけて無理やり納得していたのだが、
どうしても自己の感覚のみの認識である事項とは一線異なり、何かもっと明確な、間違いなくそこにあるかのような確立性を感じるものだった。


私の場合、文字は勿論、物体や人などの「物体として存在するもの」に、匂いや色、質感などの「漠然とした(が、しかしどこか明確な)そこに物体として存在しないもの」がくっついて見える。というか認識する。
※勿論ポストは赤い、パトカーは白と黒のツートンであることはわかっていて、あくまでもこれは印象の話。実際に色がそう見えるわけではない。
人間の場合、潜在的な印象で色があり、その時の感情?でその感情の色が少し乗ってくる。→これがめちゃめちゃにしんどい。

実際の形や意味合いと、私の認識が合う漢字は例えば「赤」なのだが
「あ」と「か」でも各々色が違うし、「あか」でも違うという、なんともややこしい。
※自分だけの感覚で自分が決めた認識なのに何言ってんのという感じであるが。。。




幼稚園の時、
家族や友人、その辺のにいる人を10人くらいお絵描きした時に
この人は黄色〜、この人は薄い紫〜、この人は肌色と緑を混ぜたような人〜という感じで
私はその人達の後ろを、各々の印象の色のクレヨンで塗りつぶした。

色の親和性もグラデーションもクソもない画用紙と、色が混ざり合ってしまったクレヨンの先、なんと褒めようか考えている先生の顔を見たその時から
私はずっと、この感覚がコンプレックスであった。


「他にも同じ人いるかな?」
「さらっと言ったら私も〜ってなるかな?」
「家族は遺伝子的にあるかも!」
「というか寧ろ大なり小なりみんなあるんじゃないの?」


20年くらい思ってきたが、どうやらそんなことはなく
へえ〜と流されるか、厨二〜って揶揄われるか、かっけ〜じゃんなにそれってなにもわからず肯定してくる人のみで、そもそも多くの人に聞くことすら嫌になり
自分だけの感覚として蓋をしてきた。
家族にすら一部にしか話しておらず、仲の良い友人などにもあくまでも何となく、言ってみただけ。というスタンスを貫き通してきたのだった。


そんなある日、
大学生の時に福祉心理学の先生と仲良くなって、
「今日のステレオタイプの講義、ガツンきたっすよ〜。自分も固定観念強くて困ったことがあって〜子供の時からなんですけど〜…。」
と、ヘラヘラして話していたら

「それって共感覚じゃないの?」

「なんすかそれ」


となり、
初めて「共感覚」という、どうやら似たような感覚を持った方々がいることがわかった。(最初から調べろ)


瞳孔をかっ開いたままその後研究室に無理やり着いて行って話を聞いたり、
大学の図書館にこもってひとしきり文献を漁った結果、何か変に腑に落ちた。

長年モヤモヤしてきたのってこんなもんかあと、
誰に否定されたわけでもないが肯定と、誰に悪いことをしたわけでもないが赦しを勝手に得たのであった。

だが、
私は今までリアルなコミュニティで「私共感覚!!」って人とあったことがない。
そうそう日常生活でそんな話にもならないし、私のように積極的に明かしていない方もいるのだろうが、漠然とした孤独があることは変わらない。



何となしにいつもの様にヘラヘラしながらインターネットを彷徨っていると
そんな孤独を埋めてくれる様な作品に出会った。

「言葉の獣」 著 鯨庭


詩や言葉が好きだが、周囲との関心や感覚との違いにうまく向き合うことができない女の子(やっけん)と、人の発した言葉が獣として見え、その言葉の真意を捉えることができる共感覚の持ち主(東雲(しののめ))という 2人の女子高校生の物語。


東雲は、言葉の真意を探るときに言葉のジャングルに潜る。
言葉が好きなやっけんも深く思念することで深い言葉のジャングルへ、自身も虎の様な獣になって一緒に入り込んでいく。
そこには一般的な「がんばれ」が大きく穏やかな熊のような獣として存在しているかと思いきや、やっけんの「がんばれ」も4つ耳のあるウサギのような獣として存在し、

例えば同じ「がんばれ」でも下記のように

・穏やかで相手にも寄り添える熊のような「がんばれ」:一般的なイメージ
・言葉を発した後はその人任せで発した自分や「がんばれ」という言葉自体は逃げ回っている臆病なウサギのような「がんばれ」:やっけんのイメージ

まるで相対するような意味合いで同じ世界に存在する。



話自体すごく面白くて、絵がとっても繊細で綺麗。
線が細い絵好きすぎて、この前青山ブックセンターで行われていた原画展にも行ってきてしまった。サイコー。勿論短編集などなど全て持ってます。ポストカードもったいなくて使えないっす。
みんなも是非みてくれよな!!

というのは前提にして



著者の鯨庭さんは東雲と同じ所謂「共感覚」をお持ちなのだろうか。

私は前述の通り20年ほどこの感覚を他人に話すことを避けてきた。
これは私だけの謎の感覚で他人も理解しにくい、迷惑なものでコンプレックスだったからだ。

私は東雲のように、言葉が獣になって飛び出るわけではないし
それをスケッチして絵にすることも勿論できないが、質感や色や雰囲気などはあって、その感覚を「君ならいっか」と話してくれる東雲と、向き合ってくれるやっけんが存在することにじんわり目頭が熱くなってページの中の2人と肩を組んだ。混ぜてくれよ。

私にとっては許しというか、肯定というか、
「君はそういう感じなんだね。私はこういうふうに見えるんだ」と言ってくれているようで嬉しかった。
日なたで大きな深呼吸をした時鼻の奥が少しツーンとするように、じんわり感動して、大きな肯定と、ある意味慈愛のある放置感を受けた。

少しだけ自由になった私が、いい漫画〜。と思った。


これって、この感覚と近いことを言ってるのかな?とか、書いているのかな?
と思うことは時々あって、
プルーピリオドに出てくる森先輩(憧れの先輩)が渋谷の青い朝について話す八虎(主人公)に

「あなたが青く見えるなら りんごもうさぎの体も青くていいんだよ」

と言ったときは

絶対に八虎よりも私の方が感動して、ぶるぶる震えながら感涙した。(そこから森先輩を神格化して、お守りがわりにステッカーを常に携帯の裏に入れている)

まあ、別に共感覚のことではなく、表現の自由とかそういうニュアンスのセリフだったと思うが…。

あとはなぜか、漫画「ホムンクルス」にも似た感覚を覚え、すごく印象に残っている。(映画はそんなにだったけど)


なんか色んなところ行ったり来たりして取り止めのない散文になってしまったが、
「言葉の獣」という漫画に勝手に救われて、言葉の美しさと多様性に改めて惹かれる日々です。という話である。


Twitterは言葉の樹海だって言ってた。
僕は何の獣になって庭を歩けるのだろうか。




そういや自分を見た事ないな。そもそも見れるのだろうか。
おそらく一生みないだろうけど。






#nowplaying
My Name Is yanagamiyuki

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