「文章を書く」とは何か。

最近の私は、本当によく文章を書いている。

日常生活を送っていても、路上で占いを構えて客を待っている間にも、突然どこからか言葉の海が溢れ出すような瞬間があり、外出時には常にメモ帳とペンの携帯を欠かすことがない。

ところがそれに反して、ネット上に文章を公開する機会はどんどん減っている。正確には「人に文章を読んでもらう機会」が減っている。最近ではツイッターもやめ、その他のSNSも積極的には使っていない。このマガジン「思考。」の更新も、気付けば一ヶ月以上も間が空いている。

書いているならそれを見せればいい、と思いきや、私にとって「文章を書く」とは、どこからか降りてきた言葉を自分のために書き記しておくという行為であって、人に見せるとなるとこれはまた話が別なのである。実際、メモ帳に書き散らかされたものを家に帰って後で読み返してみると、辻褄の合わない散文のような、まるで人に見せられるような代物ではないことも多い。自分一人のための文章であればそれでも事足りるのですが、人に見せる、つまり自分とはまったく別の知識経験を持つ人間に自分と出来るだけ近い感覚を共有してもらうためには、それ相応に整理整頓しなくてはね。

そもそも「考える」という行為に於いては、それを他人に披露したり主張したりする必要はないのです(と言うと、このマガジンの存在意義を否定しかねないのですが)。何故なら「考える」とは、自分の意見を言うことを目的とする行為ではないからです。

「考える」とは、私個人の意見を人様に訴えるためのものではない。それは一体どういうことなのかを考えるのである。だから考えれば考えるほどに、そこに書かれるものは誰にとっても同じように共有出来るものを目指さなくてはならない。その反対に、「自分の意見」というものはだんだん消えていかなければならない。これを別名、普遍性と呼びます。

せっかく文章を書いても、結果的にその目指すところの普遍性、すなわち「誰にとっても当たり前のこと」に到達するならば、それを他人に読んでもらうとは一体何を意味するのだろうか。普遍性を他人と共有するという行為はこの世界にとって、一体何なのだろうか。とまあ今度は別の問題にぶつかってしまい、そこから一向に進まない。始終こんな調子であるから、せっかく意気揚々と始めたnoteの更新とて、そりゃあ滞るというものです。

「文章を公開する」とは、ざっくり言うと、これは自分の無知を晒すということです。

文章を書いてそれを公開するという行為を、自分の知っていることを人様にひけらかすことだと思っているなら、それは大きな勘違いでしょう。人が文章を書けば、如何なる場合にも、必ず己の無知を晒すことになる。どんなに博識の人がどんなに丹念に調べて書いたものだとしても、己の無知を晒すことは決して避けられない。

何故なら人類はそもそも、世界のすべてを知っている訳ではないからです。知らないことの方がずっと多い。何かが書かれるということは、何かが書かれないということですね。書かれていないこと、つまり筆者が知らないこと。知らないことを知るために、人は考え、再び筆を執る。そこにはまた、何かが書かれない。

つまり人によって書かれた文章には、直接的であれ間接的であれ、「自分はそれを知らない」ということが沈黙の元に書かれているのである。否、論理的には、書かれていなくてはならない。これを人前に堂々と公開するというのは、まったく自分の無知を晒すということと同義なのですね。書くというのは、実に勇敢な行為です。

これは決して悪いことでも愚かなことでもありません。むしろ自分の無知を晒し、その無知性を知るという経験は、より賢くなるということでもあります。「無知の知」ということを、ソクラテスも言っています。

ところが自分一人の思考を整理するために文章を書いていても、自身の無知性というものはなかなか発見されないもので、自己完結してしまえばそれまでです。他者に読まれることを意識して初めて、己の無知を知ることができる。これはつまり、他者の存在を想定しなければ己が無知であることを一生知らずに生きることにもなりかねない、ということを意味するわけです。おお、そっちの方がずっと恐ろしいではないですか。

ということで、私も恥を偲んで一筆認める次第である。「文章を書く」とは、何か。

 

文の起りは必ず由あり
天朗らかなる時はすなわち象を垂れ
人感ずる時はすなわち筆を含む

 

これは空海の言葉である。意訳すると、だいたい次のようになる。「人が文章を書くのには必ず理由がある。天界が朗らかなとき、この世界に象を現す(空が晴れるなど)。それと同様に、人は何かを感じている時に筆を執るものだ」―。

体験的に知っている方も多いと思うのですが、良い文章というものは、なんだか勝手に書かれるようなところがありますね。

これは自動筆記のような特殊な手法に限って言っているのではなく、どんな手法のどんな形式の文章に於いても、それが活き活きとした面白い文章であればあるほどに、筆の軌跡はオートマティックです。頭の中に次から次へと言葉の波が押し寄せ、それを書いている時の筆(もしくはキーボード)はほとんど自動的に動き、何か強い力に突き動かされているかのように、言葉がすらすらと紡がれていく。

反対に、そういう感覚がない時、何か「文章」というものを無理やり頭からひねり出そうとして書いている時ほど、筆が進まない時ってないですよね。頑張って、踏ん張って、ようやくどうにか形にはなるけれど、後で読み返すとまったく中身のない、別にそんなに熱く語りたい内容でもない、なんとも歪で見苦しいものが出来上がってしまうことでしょう。

空海の言うように、文章というのは何らかの理由によって「書かされる」ようなところがあります。「文章を書こう」と意気込んで無理やり書かれた文章は、一応形にはなるけれど、なんというか命を持たない、パワーを持たない、そして何よりつまらない。文章がその文章で面白く、そしてパワフルな言葉の生命を宿すためには、無意識的に、或いは自動的に、「書かされ」なければならないようです。

これは文章を書くということの本質が、文章という出来上がった結果ではなく、そのきっかけとなる情動の方にあるからです。

情動をロゴスを用いて形にする作業、それが書くということです。

ロゴス、すなわち論理。言葉と置き換えてもいいし、理性、もしくは知識や技術と置き換えることも出来ます。

つまり文章とは、度合いの差こそあれ、情動(カオス)が言葉(ロゴス)によって理性化された状態のことを差します。文章は、情動が言葉によって顕現した姿であり、そもそも情動がないのに、結果の姿だけをいくら求めても、うまく書けないのは当然です。

よく「筆が立つ人」と言いますが、それこそまさに「情動をロゴスを用いて理性化する能力に長けている人」のことを差すのだと思います。これは「文章を書くことに長けている人」とは似て非なるものです。

「文章を書くことに長ける」とは、これは知識とテクニックの問題なので、練習すればある程度誰でも出来るようになります。それこそ文章の書き方講座に通うなり、良い文章をたくさん読むなり、そういうテクニックはいくらでも学べばよろしい。しかし「筆が立つ」とは、そういった小手先の知識や技術よりずっと前の段階、情動がなければ成り立たない。こればかりは、文章の書き方講座にいくら通っても決して得られることはなく、それでいて、良い文章を書くためには一番大切にすべき要素なのです。

ここでは文章のことを書きましたが、これは人間がこの世に何かを生み出す行為全般、例えば絵や音楽の場合にも同様のことが言えます。

画家は絵を描こうと思って絵を描く訳ではない。情動を世に現した結果、出来上がったものが絵と呼ばれた。情動を世に現した結果、ぽんと口をついて出たものが歌と呼ばれた。その現され方、使うもの、手法、プロセスからリザルトに掛けてはそれぞれ全く異なりますが、根源的なところに位置するのはやはり情動です。

時々、そうではない人が画家や音楽家を名乗っていることがあります。絵を描こうとして絵を描き、歌を歌おうとして歌う人々のことですね。彼らなどは、疑う余地もなく贋物なのでしょう。何故なら絵を描こうとして絵を描く、歌を歌おうとして歌うというのは、「絵」や「歌」という自分の外にあるもの(=本物)を模倣している状態から抜け出せていない、ということに他ならないからです。そういうものには、決まって真新しさがなく、型にはまっていて、何より情動が欠けている。今の世の中、ざっと見回しても、そういうもので溢れ返っていますよね。

まず情動があり、それを知識と技術を用いて形にし、この世に顕現させる。これこそが、人間がこの世に何かを生み出す時に行われる基本的なプロセスであり、もちろん文章を書くという行為に於いても、これは例外なく当てはまります。

 

 

少し横道に逸れますが、情動を技術と知識とを行使して形にするというのはとても大変なことで、そのためには莫大なエネルギーが必要です。これは体力即ち肉体的なエネルギーともうひとつ、生み出すことに対する執念のようなエネルギーが必要なのですが、これはどこから来るかというと(これは世界の秘密のひとつなのですが)、感情によって得られます。

感情は、それがどんなものであったとしても、エネルギーに変換することができます。怒りや悲しみといったマイナスの感情でさえ、そのぐわぐわとした強い力をそのまま対象物にぶつけるのではなく、自分がこの世に何かを生み出すためのエネルギーに変換することで、その感情を呼び起こした直接の出来事とは別のことに使うことができるのです。

例えば誰かに理不尽なことを言われて、ものすごく腹が立ったとします。この時生まれた怒りや悲しみの感情を、一旦スッと横に置くと、あとは理性が残ります。この理性が、悩みや問題の解決には本当に役に立ちます。「納得いかない!」という感情の段階から、「何をどうすればいいか」という理性の段階に持っていくことが出来れば、大抵の物事の解決策というのは案外見つかるものです。

その時脇に置いた感情は、自分が何かを生み出すための執念、知識と技術を行使する時のエネルギーとして使うことができるのです。体力だけではダメで、執念深さがないと作れない。「絶対に負けないからな!」という、あれです。これが、情動を形にする上で本当に役に立ちます。この一連のプロセスを、私はシンプルに「感情のコントロール」と呼んでいます。

文章でも絵でも音楽でも、この世に何かを創り出す人間は感情が豊かな方が良いし、その感情をコントロールできれば更に良いです。情動を、知識と技術を行使して形にするまでに必要なエネルギーは、実は感情から生まれます。優れた芸術家の人生に得てして苦難が多いのは、そういうことかもしれないと、私は想像するのです。

 

 

さて。お気付きの方もいらっしゃるでしょうが、ここで大変な問題が生じます。それは、最初の情動はどこからやってくるのか。

情動は、ある日突然に降りてくる。これは感情ではありません。感情は出来事に対して受動的に生まれるものです。情動は、これとはまったく性質を異にします。

それはある瞬間、唐突にふと、私たちのところにやってくる。そして、私たちに何かをやらせます。文章を書かせ、絵を描かせ、歌を歌わせる。それもほとんど自動的に、何かが私たちを突き動かすようにして。

はて、これは何でしょう。人が命の宿るものを生み出すためには絶対に必要で、まるで我々を操るかのように人間の肉体と精神を動かし、みるみる何かを作らせてしまうこの情動の正体とは、一体何なのでしょうか。そしてそれは、どこからやってくるのでしょう。

私は一度これを考え始めると、まるで自分の足元に何か巨大な生物が大きな暗闇の口をかっぽりと開いたような、その底知れなさに背筋がスッと恐ろしくなる感覚を覚えます。もしあなたにこの底なしの思索に足を踏み入れる勇気があるのならば、一度考えてみて下さい。情動とは何か。

私はそろそろ筆を置きます。何かが書かれるということは、何かが書かれないということです。

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北沢由宇

思考。

スマホもパソコンも文献資料も必要ない。頭ひとつあれば足りる。それが「思考」である。この姿こそが人間を人間たらしめる。
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コメント3件

とてもおもしろく読みました。
今は、最後の「情動」が何処から来ているか、について、読んだり考えたりしたことを書きます。

結論は、「情動」は、自分から発している、ということです。
ただこの「自分」は次の二つの自分に分かれています。

自分1:いまこの話題を話している自分(実際は自分の意識)
自分2:意識できていない、生物である身体とか生な知覚を含む全体としての自分

「情動」は、自分2から発しているものと考えられます。
自分1つまり、自分の意識から見ると、自分2から発した情動は、まるで自分の外(実際には自分の身体)から発したように感じられる。

もう一つ「感情」との関係を述べると、過去や未来の「情動」に関する「意識」が「感情」というものの実体です。

これらは、私の考えでなく、ジュリアン・ジェインズという人の考え方なのですが、私はこれを支持したいと思っています。

(ちょっと訊かれている内容からは逸脱しているかもしれませんが、ご容赦ください。)
書かれないものをあらしめるために、書く…書くことは、書いてあるものを作ることは、時々、敗北のようですね…。
整理整頓するというのは、『編集』と『取捨選択』ということですね。
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