「残念な人」という表現のこわさ

「残念な人」という表現がこわい。

誰かを排除したいときに「残念」といえば、相手に否があるように第三者に見せることができる。この巧妙さがこわい。

浄化は、行為そのもの自体は、主体的になにかを排除することでもある。

なので、浄化のために「残念な人」という表現を使うことは、その主体性を棚上げしていることになる。その棚上げ先が、神ではなく悪魔。日本語にはこういう表現が多くて、地獄に落ちる泥船に乗っているような気分になることがたまにある。

わたしは、「残念な人」がそうでない人にかわるきっかけや、移行のプロセスに興味がある。

最近、角田光代さんの小説が妙にしみてくるのは、こういう気分からではないかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?