車イスに乗って

日曜日、母の誕生日にかこつけて、父を含めた3人で出掛けた(妹は旅行で留守)

ちょっと車を走らせて美味しいものを食べに行き、最後にイオンへ行った。

そのイオン、近年のイオン増殖で長年下火になっていたが、増築も含めた大改装で一新し、駐車場も満車の大盛況となった。

行くことは決まっていたので、先週の日曜に彼氏と下見がてら行ってみた。
あまりの変貌ぶりに驚き、すごいすごいとはしゃぎながら見て回ったが、困ったのはその広さだった。

例の病気で、私の歩幅はかなり小さい。一歩がおよそ足1.5個分である。そのため、同じ距離を歩くにも歩数がかかる。つまり疲れやすい。

しかも、筋肉的な疲れだけでなく、股関節の辺りが痛くはないけど熱いような、油を差さずにギコギコやるような疲労感も加わり、そうなると本格的に歩けない。歩幅は足0.5個分になり、足の運びも遅くなる。
休憩を挟めば多少は回復するが、どのみち大して歩けない。

そのときは、一応最後まで自分の足で歩ききったが、次来たときに一軒一軒店を回ろうと思ったら、車イスがいるかもしれないねと話していた。

病気になってから、親とイオンなどの大きな施設に行くのは初めてだった。
彼氏は慣れているので、いつも私の歩みに合わせてくれるが、2人はどんどん歩いていく。私が着いてきていると信じて、振り返ることもしない。

が、50mくらい離れてフト振り返ったときに、私が遥か後方にいることに気付く。立ち止まり、私を待ってくれる。
しかし、再び歩き出したときのスピードは変わらず、私は再び置いていかれる。その繰り返しだった。

途中で父だけ別行動となり、私は母と2人で服屋を回った。「裏地のないスカート」を探し回った。

なぜか今年は、どのスカートにも裏地が付いている。足首まで届くようなマキシマムスカートばかりなのに、長くて立派な裏地が付いている。
そんなに透けるのがイヤなのか。裏地なんて、太もも周りだけあれば十分だ。こんなに暑苦しかったら、スカートを履く意味がない。

まあ、裏地は最悪切ればいいやということで、とりあえず見た目が好きなものを探した。
丈が長いと階段を登るときにスカートをつままないと踏むので、すねの真ん中あたりの丈を探したが、これもまた全然ない。今年はこれでもかというくらいマキシマム丈ばかりである。膝上のスカートなんて皆無だ。

2階を回りきり、1階に移動したあたりで、脚の限界が来た。例の「歩幅=足0.5個分」状態になってしまったのだ。

母はそれまでも、私の歩幅に合わせることはほとんどしなかったので、もうとんと置いていかれた。

あまりに辛くなり、私は母の目を見て訴えた。「車イスが欲しい」

疎ましそうな顔をされたのを、私は忘れないだろう。

「そんなほどのこと?」

見たい店は、残り少しだ。しかし、私にはその少しさえキツい。

たまたま、近くにインフォメーションカウンターがあった。そこに言えば、車イスを貸してくれる。

しかし、母はそれを面倒くさがった。
いや、借りにいくことではなく、何か違うことを面倒がったように見えた。

「そこ(ソファ)に座ってれば? 代わりにいいのないか見てくるから」

イヤだ。「自分で見たい」

「じゃあ、自分で言いに行ってよ」

とりあえず、休憩のためにソファに座った。私は涙が溢れそうになるのを、まばたきで必死に堪えた。

母は妙に急いている。「借りるの?」

小さく「うん」と答えるが、なかなか顔を上げられない。疲れもあり、立ち上がれない。

やがて、母は面倒くさそうにカウンターへ行った。
私はそれを追って、必死にちまちまと歩いた。

母は押そうとしたが、私は自分の手で漕いだ。どうしても、自分の手で進みたかった。

一度使ったことがあるので、操作は慣れている。しかし、力が要る。満足なスピードを保ち続けるのは、おそらく無理だろうと思っていた。

それでも、足で歩くよりは遥かに速い。確実に、自分の力で体を進められる。つらくも力強い「歩み」に、世界を切り拓くような感覚を得た。

その後、無事に好きなスカートを見つけ、父と合流した。

父は、車イスに乗った私を見て、当然驚いた顔はしたが、特に面倒がる様子もなく、快く押してくれた。

私を押しながら、楽しそうに買い物をする。それは、なんとも心地よい時間だった。

私は、基本的に父は優しくない、イジワルな人間だと思っているので(このことについては後日)、彼がどういう気持ちで私を押していたのかはわからない。
ただ、例えそれが偽善的なものであったとしても、直接イヤそうな顔を向けてきた母よりは、全然よかった。

そういえば、前にも一度、彼氏と別のイオンに行ったときに、車イスを借りたことがある。
そのとき、彼は面白そうに車イスを押した。子どもがカートを押して走りたがるように、人の少ない通りを行くときは、ちょっと加速して「ぶーん!」と言わんばかりに駆け抜けた。

「危ないじゃん!」とは思ったが、私も妙に楽しかった。

でも、そんなんでいいと思った。

別に動機はなんだっていい。人の役に立ちたいという崇高なものでも、ただ車イスを押すのが楽しいという好奇心でも、人からよく見られたいという偽善的なものでも、イヤそうな顔をしなければそれでいいのだ。

とにかく大事なのは、障がい者本人がイヤな思いをしないこと。多少不便でも、自分の意志で行動できること。それに尽きると思った。

たとえば、私の代わりに服を見に行くと言った母も、それなりの親切心はあったかもしれない。だが、そこには私の意志を尊重するという観点が抜け落ちていた(自分で「尊重する」って言うのもなんだかおこがましいが)

別に、車イスに対してめちゃくちゃ配慮することはない。たまに殿様でも通るのかってくらいサーっと離れる人もいるが、別にぶつからなきゃいいのだ。歩いてる人と同様、最低限の距離感と安全だけ確保してくれれば十分である。

ただただ、人として尊重してくれるだけでいい。余計な道具が付いているだけで、個人としての扱いを変える必要はない。

足が使えないから、代わりに車イスを使う。移動の目的は、「好きなスカートを探すため」。それ以上でもそれ以下でもないのだ。


れいわ新選組を知ったことをきっかけに、障がい者支援というものにより関心を向けるようになったが(意外にも自分のことがきっかけではなかった)、当事者としての体験を経て、そこで深めた知見は間違いないものだと確信した。

前にも書いたが、障がい者支援はとにかく健常者とのギャップを埋めることが最大の目標だ。下駄を履かせて初めて、「我々」は健常者と同じことができるようになる。
その下駄を「優遇」だと思うのであれば、それこそが差別そのものである。

そしてそれは障がい者支援に限らず、あらゆる弱者に対する支援においても、同じ態度を取るべきである。

一日も早く、こういった福祉が本当に必要な水準まで充実することを願っている。

厚労省もぬるいこと言ってんじゃないよホントに。

大学中退病弱フリーター。病気で中途半端な障害を負って、身体という資本をほぼ失いました。あるのは思考大好きな頭と、ちょっと硬くなった手。あなたの支援は、私の存在価値の裏付けになります。