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ああ素晴らしき人間の世界

木金と、静岡は掛川まで行ってきた。
(私は愛知在住)

妹がセカオワことSEKAI NO OWARIのファンで、たびたびライブに出掛ける。今回も友達と2人で行く予定だったが、友達が行けなくなってしまい、代わりに私が行くことになった。

最初は母が行くという話だったが、以下の2点で私が行くことにした。

・元々セカオワに興味があった
・会場が掛川だから

掛川だから、というのは、掛川花鳥園という素晴らしい施設があるからだ。

花と鳥の展示施設なのだが、エリアによっては鳥が放し飼いになっているのだ。
100円くらいで売っているエサを手にすれば、お手軽に手乗り腕乗り肩乗りを楽しめてしまう。素晴らしい鳥の楽園である。

コイツなんて、エサを買うまでもなく乗ってきた。最初は他の鳥を乗せようとしたのだが、なかなか乗らないその鳥に対して「どけ!」と言わんばかりにコイツがやってきた。肩まで登ってきて髪の毛に頭をうずめてくるので、まんまとリンゴを買ってあげた。

私が中学生のとき、つまり約10年前だが(マ?)、家族で静岡旅行に行って初めてここを訪れた。
そのときの楽しさが忘れられず、ずっと行きたいと思っていた。

それが、今回の静岡行きに繋がったのである。

なお、主な費用を親が持ってくれたのが最大の決め手であったのは言うまでもない。


まあ、花鳥園は言うまでもなくサイコーに楽しかったのだが、今回書きたいのはセカオワのライブの話である。

私は今まで、戸川純のライブハウスでのライブくらいしか行ったことがなく、今回のようなアリーナでの音楽コンサートに行くのは初めてだった。
(むしろなんでこの年代で戸川純だけ行ったことあるんだって感じだが、まあそうなのである)

妹が取ったのはアリーナ席で、しかもわりと前の方でさらに花道に面しているかなりいい席だった。
脚が悪いのであまり長時間立っていられないが、遠慮なく座れる位置だったのはかなり有難かった。

今回は、できるだけ音楽の世界に浸るような感じで楽しもうと思ったので、あまり無理に動かず、ジッとしながらも目と耳と胸(大音量なのでズンズンと響く)で世界観を味わうことにした。前にほとんど人がいないので、完全に自分のペースで味わえたのが良かった。

まず凄いと思ったのは、照明だった。

一応演劇をやっていたので、そういう舞台の裏方仕事にも職業病的に注目してしまうのだが、本当に凄い。

あまり物理的なセットを組めない分、照明で世界観を表現していたのだが、その使い方が贅沢というか、光だけでここまで世界を構築できるのかと、照明のパワーに感動した。

キリが無いが、こんな感じである。
※ちなみにセカオワのライブは写真撮影OK

人を照らす照明だけでなく、スジを出す照明、空間に色を付ける照明、シルエットを作る照明など、これらを総動員して作られている。

また、観客の手首に巻かれているペンライト的なやつは、照明プランと連動して自動的に色が変わる。
ふと反対側の観客席を見ると、まるで宇宙のような光と闇の海が広がっていた。

これら照明による空間作りというのは、こういった広い空間でライブをするにあたって、会場をアーティストの世界の海に沈めるような役割を果たすのだと思った。

私が今まで大規模ライブで懐疑的だったのは、実はそこだった。

どんなに会場が大きかろうが、演者の大きさは変わらないのである。
巨大な空間の中で、どうやってその小さな人間の演じるパフォーマンスを隅々まで届けるのか、よくわからなかったのだ。

だが、それを叶えるための素晴らしいスタッフワークがあるのを知った。照明と音響は、空間の中心から発せられるクリエイティビティを、できるだけその濃度を損なうことなく伝える努力がなされている。

それが、なんだか素敵だなと思った。

演者が素晴らしいのは言うまでもないが、その素晴らしさを感じられるのは、やはりこういった工夫のおかげなのである。

私は、たぶん側から見たら随分クールに観ていただろうが、熱狂はしていないだけで、彼らの作り出す世界にどっぷりと浸っていた。


セカオワは、現在全国13カ所を回るツアーをしており、今回が12カ所目であった(1カ所あたり2〜3公演)

私は、彼らがこうして全国を回ることで、一体どれだけのお金が動くのだと、その規模の大きさに目眩がした。

イヤ、お金というとなんだかゲスい感じがするが、結局それは、どれだけの人が彼らの元に集い、彼らの生み出す価値を求めたのかという、そのスケールを表しているわけである。

彼らは今回のツアーでかなり稼いだだろうが、それだけの価値を生み出したということだろうし、またそれだけの投資ができた=チケットを売ることができたということだと思う。
(チャリティーライブの収支報告を見たが、チケットなどによる収入のおよそ半分は経費になるようだ。チケットが売れなければ赤字必至である)

音楽アーティストは、別に具体的にモノを作るわけではないが、人々に文化的で豊かな時間を提供してくれる。

それは、本当に素晴らしくて、尊い営みなのだと思った。

もちろん、素敵なモノを作り出すこともまた同じくらい尊いことだ。
今回、私は花鳥園で大量のお土産を購入してしまった。
なぜならどれも素晴らしくて、自分の生活に彩りを与えてくれ、それらを使いながら過ごすことは、なんと豊かで楽しいことだろうと思ったからだ。

がま口バッグとTシャツが高かった………でもどうしても欲しかったので、カードで買ってしまった(計○○k円) 今まで散々買い物を我慢してきたのが爆発した感じである。下敷きとコースターはノベルティ

これを物質主義と笑うなら笑えばいい。
だが、それがたまたまモノであっただけで、私が価値を感じたのは間違いなく人々の仕事である。誰かが作ってくれたから、これらはモノとしてこの世に形を得たのだ。

自分でモノを作ってみると、その大変さを否応にも感じる。たとえそれが大量生産品だったとしても、必ずどこかに人の手仕事が入っている。それを感じずにはいられないのだ。

すべて経済活動は、このような尊い価値のやり取りであるべきだと思う。そのやり取りをスムーズに行うために「お金」が使われているだけで、「お金」を稼ぐことが目的ではないのだ。あくまで本質は、生み出した価値を、必要としている人々の元に届けること。ただそれだけである。


しかし残念ながら、昨今は「お金」を集めることに腐心する者が多い。

本当に何度でも言うが、私は投資のみで生計を立てるつもりは一切無い。

将来のための資産形成として行うのはアリだと思うが、株やFXなどで1億円とか稼いでる人は、もうちょっと「価値」というものを考えた方が良い。
結局そこで稼がれたのは、資本主義の歪みによって「集まってしまった」お金である。やり方を間違えなければ、雪だるま式にお金は集まっていく。投資家が生み出した価値なんぞ、そこには一切存在しないのだ。

私はその歪みに乗っかるつもりはないし、だったら社会保障で生きる方がよっぽど健全だと思っている。


少し話は逸れたが、私はこれからも、人の生み出した価値というものを大事にしたい。
それらの価値は、必ずしもお金にはならないのかもしれない。だが、お金にならなくても、その価値を生み出した人が困らない世の中になることを望む。その人から、その人にしか生み出せない価値を生む機会を奪うことは、多かれ少なかれ社会の損失になるからだ。

これが、恐らく本当の意味で多様性を認めることだと思う。


今回の静岡旅行を通じて、私は人間の生み出す価値の素晴らしさを感じた。

生み出せる価値の大小はあるだろうが、もし全ての人々が自身の生きる価値を尊重されたら、なんて豊かで素敵な世界になるのだろうと、本気で思ったのだ。

そして価値は、生み出す人と受け取る人の、両方がいて初めて成り立つ。

自分では大きな価値を生み出せなくても、他人の生み出したものに価値を見出せるのなら、それだけで生きている価値があるのだ。

価値を生み出せる人間にもなりたいが、他人の価値を見出せる人間にも、私はなりたい。



帰りに食べたローストビーフ丼が美味しすぎて、30分くらい余韻に浸っていた。


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お金について考える

大学中退病弱フリーター。病気で中途半端な障害を負って、身体という資本をほぼ失いました。あるのは思考大好きな頭と、ちょっと硬くなった手。あなたの支援は、私の存在価値の裏付けになります。